森琴石
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摂津国の有馬温泉[2](現在の兵庫県神戸市北区)で、梶木源次郎の三男として生まれる。名は熊、後年繁と改める。初号を蘆橋、次に金石、更に琴石と改めた。字は吉夢。別号に栞石、鉄橋、雲根館等も号し、斎号を聴香読画廬。父・源次郎は、現在も同地で高級旅館として知られる「中の坊」を経営し、有馬温泉の炭酸水発見者でもある。1846年(弘化3年)大坂で旅館「出石屋」を経営する森猪平(のち善蔵)の養子となり、1850年(嘉永3年)鼎金城に南画を学んだ。金城が1862年(文久2年)に亡くなると、忍頂寺静村(梅谷)の門に転じ、一方漢籍を妻鹿友樵(めが ゆうしょう)、高木退蔵に学んだ。
1873年(明治6年)東京に遊学して、高橋由一から油絵の手ほどきを受けたという。ただし、由一の門人帳には琴石に当たる名が見えず、実際の所は不明である。ただ、由一と親交があり銅版画家で知られる松田緑山(二代目玄々堂)とは、何らかの接触があったと推測される。明治10年頃から胡鉄梅や王冶梅ら来舶清人画家と交流する。明治10年代には全国各地の景勝地を巡り、写生画稿が幾つか残っている。1882年(明治15年)の第一回内国絵画共進会で褒状。1884年(明治17年)浪華画学校の支那画教員となり、後に同僚になった矢野五洲と協働して、1889年(明治22年)浪華学画会を結成、翌年大阪府立博物場で大阪絵画共進会を開催する。翌年9月に宮内庁の御洋画家となったとされる。
このように南画家として活発に活動する一方で、明治8年頃から21、22年にかけて多くの銅版画を手掛けている。現在確認されているだけで60点から70点以上、特に地図は25点以上と多い。琴石が銅版画をどこで身につけたかはよく分かっていない。若林春水堂に学んだとされるが、作風の類似から松田緑山からも影響を受けたとも言われる。明治の銅版画家には、青野桑洲、結城正明、柳田龍雪、中村月嶺らのように、狩野派の絵師から転じたものが少なくないが、琴石のように南画家出身者は異例である。
その後も、内国勧業博覧会や日本美術協会展などで受賞を重ね、大家として認められるようになる。大正2年(1913年)大阪の画家では初めて文展審査員に選ばれた。なお琴石を扱った文献では、同年に帝室技芸員を拝命したとされる。しかし、当時の『官報』に記載はなく、帝室技芸員を扱った学術論文などにも琴石の名は無い。これに先立つ明治43年(1910年)にも帝室技芸員の審査があり、琴石は鈴木松年、野村文挙、村瀬玉田、山本梅荘、菊池芳文、竹内栖鳳、山元春挙らと共に総長から候補には挙げられたものの[3]、最終的に選から漏れたようだ。晩年は病気がちで、大正10年(1921年)78歳で没した。墓は当初安治川の墓地(場所不明)に葬られたが、後に四天王寺に移された。
代表作
| 作品名 | 技法 | 形状・員数 | 寸法(縦x横cm) | 所有者 | 年代 | 出品展覧会 | 落款・印章 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 月瀬山水図 | 紙本墨画淡彩 | 1幅 | 個人 | 1882年(明治15年) | 第1回内国絵画共進会褒状 | |||
| 松竹梅図絵馬 | 桐板に著色 | 1面 | 美保神社 | 1884年(明治17年) | ||||
| 函嶺廬湖図 | 絹本著色 | 1幅 | 128.9x50.5 | 三の丸尚蔵館 | 1891年(明治24年) | 日本美術協会展 | 宮内庁買上 | |
| 山水図 | 絹本着色 | 1幅 | 171.2x87.5 | 泉屋博古館 | 1897年(明治30年) | 款記「琴石森熊」[4] | ||
| 蓬莱瑞靄図 | 絹本著色 | 1幅 | 德川記念財団 | 1898年(明治31年) | 秋季日本美術協会展二等銀賞 | 宮内庁買上を経て徳川家が拝領 | ||
| 澗閣松雲図 | 絹本著色 | 1幅 | 原敬記念館 | 1900年(明治33年) | 秋季日本美術協会展二等銀賞 | 宮内庁買上。後に明治天皇御遺物として原敬が拝領。 | ||
| 春景山水・秋景山水 | 紙本墨画 | 双幅 | 春景山水:155.0x195.5 秋景山水:188.0x196.5 |
大阪中之島美術館[5] | 1903年(明治36年)頃 | |||
| 廬山瀑布図 | 絹本墨画 | 1幅 | 渡辺美術館 | 1906年(明治39年) | ||||
