森田三郎 (自然保護運動家)
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船橋市の海岸近くで育ち、幼い頃から干潟で泥だらけになるほど遊んだという[2]。昭和49年(1974年)には市川市でタクシー運転手や新聞配達をしていた[1][2]。新聞配達の際に森田が久しぶりに見た干潟は、埋め立てが進んで住宅地などに囲まれおり、さらにその少ない面積の干潟にすら家庭ゴミ、流木が山積して異臭を放っていた[2]。森田は新聞配達が終わると、1人でゴミを拾い、冷蔵庫や自動車といった粗大ゴミにはロープをくくりつけて泥から引っ張り上げるなどした[2]。しかし、地域住民は異臭に悩んでいたため、埋め立てを望む者が多かった[2]。行政からはゴミの回収を拒否され、干潟から引き上げて土手に置いてあったゴミも住民には嫌がられ、森田が自ら置いた投書箱である「干潟通信箱」には批判的な意見ばかりが集まった[2]。
森田は「谷津干潟愛護研究会」を設立し、元々埋め立てに反対運動を起こしていた「千葉の干潟を守る会」や「野鳥の会」などと連携して活動を開始した[2]。昭和51年(1976年)、習志野市議会は干潟の保存を否決した[2]。それでも森田らは諦めずに、ゴミを市役所に持ち込んで回収を直談判し続け、干潟の重要性を訴える活動を続けた[2]。森田が1人でゴミ拾いを始めてから5年経った昭和54年(1979年)、初めて地元の主婦がゴミ拾いを手伝うようになった[2]。
昭和55年(1980年)、県が干潟保存の希望を表明し、地域住民によるクリーン作戦も始まった[2]。森田は干潟のゴミ拾いに集中するため、昭和56年(1981年)に新聞販売店を退職して干潟の近くに住むことにした[2]。昭和59年(1984年)には、ついに市が干潟の埋め立て計画を撤回した[2]。
森田は周囲の後押しから政治の世界へと進み、昭和62年(1987年)に習志野市議選でトップ当選をした[2]。平成元年(1989年)、森田は吉川英治文化賞を受賞[1]。その後、市議3期、県議2期を平成19年(2007年)まで務めた[2]。その間の平成5年(1993年)、谷津干潟はシギ・チドリ類の国内有数の渡来地としてラムサール条約に登録された[1][2]。
令和3年(2021年)11月6日、死去[3]。