植木幸明
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新潟県北蒲原郡堀越村大字里に生まれ、新潟医科大学を卒業した[2]。
1951年(昭和26年)に東京帝国大学助手となり、1956年(昭和31年)に新潟大学医学部助教授として外科学講座に着任した[2]。当時は、中田瑞穂教授らとともに大脳の半分を摘出する手術をおこなった[4]。
1958年(昭和33年)にはジョンズ・ホプキンズ大学へ留学し、1962年(昭和37年)には新潟大学医学部教授に昇任した[2]。この間、1959年(昭和34年)から1967年(昭和42年)まで医学部附属脳外科研究施設長を務め、1967年(昭和42年)からは新潟大学脳研究所脳神経外科学部門教授となり、その後1972年(昭和47年)から1976年(昭和51年)、また1978年(昭和53年)から1980年(昭和55年)にかけて脳研究所所長を務め、1980年(昭和55年)に定年退官した[2]。
この間、1965年(昭和42年)には、椿忠雄とともに新潟県における第二水俣病を確認[3]。同年6月12日に阿賀野川流域で有機水銀中毒患者が発生していることを発表して注目を浴びた[5]。 また、長く脳死をめぐる議論に関与して、脳死の判定基準の取りまとめなどにも寄与した[6]。
1966年に日本脳神経外科学会が認定医制度を発足させた際には、14名の認定医制度準備委員会の委員となり、最初の認定医のひとりとなった[7]。
脚注
- ↑ “植木幸明氏(新潟大名誉教授)死去”. 読売新聞・夕刊: p. 19. (1986年11月25日) - ヨミダス歴史館にて閲覧
- 1 2 3 4 5 6 “歴代教授”. 新潟大学脳研究所 脳神経外科教室. 2022年6月12日閲覧。
- 1 2 “[焦点]新潟にも出た“水俣病” 工場廃水説が有力”. 読売新聞・夕刊: p. 2. (1965年6月16日) - ヨミダス歴史館にて閲覧
- ↑ “大脳の半分取除く手術成功 新潟大学 残った分で代わりの働き”. 読売新聞・朝刊: p. 7. (1956年6月28日) - ヨミダス歴史館にて閲覧
- ↑ 世相風俗観察会『現代世相風俗史年表:1945-2008』河出書房新社、2009年3月、134頁。ISBN 9784309225043。
- ↑ “脳死 心臓は動いている 人工呼吸器の副産物 「人間の死」揺れる判定”. 読売新聞・夕刊: p. 5. (1985年2月1日) - ヨミダス歴史館にて閲覧
- ↑ 佐野圭司. “歩み・沿革 日本脳神経外科学会のあゆみ”. 日本脳神経外科学会. 2022年6月14日閲覧。
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