植村永孚

From Wikipedia, the free encyclopedia

植村 永孚 (うえむら ながたか、1849年8月24日嘉永2年7月7日〉 - 1931年昭和6年〉1月27日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍中将[1]岐阜県出身[1]。娘婿は大審院判事宇野要三郎[2]

嘉永2年(1849年)、大垣新田藩野村藩[注釈 1])士・植村弥平太の長男として、同藩江戸藩邸に生まれる[3]。幼名は算[4]。14歳で父を、15歳で母を失った[5]。16歳で藩に出仕[4]。20歳の時に戊辰戦争に参加し、越後口(北越戦争)で戦った[4][注釈 2]

明治4年(1871年)、23歳で海軍兵学寮に入学[注釈 3]。明治10年(1877年)、海軍少尉に任官[4]

明治20年(1887年)海軍少佐任官となり、造船会議議員、海軍省第一局第一課長、筑波副長、比叡副長[注釈 4]愛宕艦長、大島艦長、佐世保鎮守府参謀長等を歴任した。

明治26年(1893年)海軍少佐から海軍大佐まで二階級昇進し、以降、秋津洲高千穂、比叡、吉野鎮遠初瀬の各艦長や旅順口根拠地隊参謀長などを務める。

明治34年(1901年)海軍少将となり、同日付けで横須賀海軍港務部長 兼 横須賀予備艦部長を拝命。のち旅順口海軍港務部長や馬公要港部司令官 兼 澎湖島戦時指揮官などを経て、明治38年(1905年)11月13日、海軍中将となるが、翌月に待命となり明治40年(1907年)予備役編入となった。

旧主家である戸田子爵家の家政にも携わった[4]。昭和6年(1931年)没、享年83[4]。東京・駒込の蓮光寺に葬られた[4]。2男4女があり、二女の登茂枝が宇野要三郎に嫁いだ[4]

経歴

栄典・授章・授賞

脚注

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI