植松雅道
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植松家は権大納言・千種有能の末子、植松雅永を祖とする旧公卿家[注 2]。植松雅平の二男として1877年(明治10年)10月に東京で生まれた雅道は、大正天皇の六人の御学友の一人[4]として学習院初等科で学び、1891年(明治24年)7月に卒業[5]。1899年(明治32年)5月に慶應義塾へ入社[6]するも、翌1900年11月に退学[7]し、本籍地である京都へ移った[注 3]。また一時、岩手県にあって日本で最初にコークス銑を産出した製鉄所として知られた釜石鉱山田中製鉄所に勤めている[9][注 4]。
宮内省では主殿寮出張所の殿掌を務め、1915年(大正4年)4月に父・雅平が没すると翌月家督と爵位を継ぐ。1922年(大正11年)陵墓監に任ぜられ桃山部に勤めた。その傍ら臨時内匠寮出張所長心得も兼任。また宮内省京都事務所長として天皇の勅使も務めている[注 5]。1932年(昭和7年)退官し、1941年(昭和16年)6月に満63歳で没す。従三位、勲五等[12]。
古くは南都西大寺の再興や宇治橋の再建で著名な松月堂叡尊の流れを汲み、是心軒一露により完成された「松月堂古流」生花。権中納言・植松賞雅は一露よりその奥義を伝授され1779年(安永8年)に家元となり、以後代々続いて雅道は松月堂古流家元十世を名乗った[13]。
