私塾、県庠を経て清末に湖北新軍に入る。湖北武備学堂卒業後は第8鎮砲兵第8標の管帯をつとめ、武昌起義に参加した。1912年(民国元年)、日本に留学し、陸軍士官学校歩兵科で学んだ。
福建督軍公署主任を経て、1932年(民国21年)、国民政府で駐鄂特派綏靖主任公署参謀長に任ぜられる。1936年(民国25年)、陸軍中将に昇進した。翌年1月、湖北省政府委員に任命され(当時の省政府主席は黄紹竑)、11月に同政府秘書長に就任した。1938年(民国27年)9月、軍事参議院参議に異動している。
1939年(民国28年)8月、楊揆一は汪兆銘(汪精衛)に合流し、中国国民党第6期(汪派)執行委員に選出された[1]。翌1940年(民国29年)3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)が正式に成立すると、参謀本部政務次長に任ぜられ、部務(部長)代理をつとめた[2]。あわせて中央政治委員会指定委員(以後4期務つとめる)、軍事委員会常務委員も兼任している。1941年(民国30年)3月、正式に参謀本部部長に昇格し、あわせて清郷委員会委員となる。12月、軍事委員会弁公庁主任も兼任した。
翌年6月、湖北省政府主席に任命される。翌月、軍事委員長駐武漢行営参謀長も兼ねた。1943年(民国32年)1月、湖北省省長(省政府主席の改組)となる。8月、全国商業統制総会武漢分会委員長となった。12月、湖北省の新国民運動促進委員会主任委員をつとめた。翌年4月、武漢綏靖主任公署主任となる。1945年(民国34年)3月、軍事参議院院長に異動した。
日本敗北後、楊揆一は国民政府に逮捕される。漢奸の罪に問われて死刑判決を受けると、1946年(民国35年)6月24日、南京雨花台で胡毓坤・凌霄と共に銃殺刑を執行された[3]。享年62。