学者の徐家強氏は、歴史上に楊林という人物は実在せず、彼にモデルがいるとすれば、それは楊義臣(ようぎしん)こそがその原型であるという見解を示している。楊義臣は隋朝末期の名将であり、数々の反王を次々と平定した。民間に伝わる隋唐物語にも楊義臣は姿を見せており、銅旗陣を張って瓦崗の英雄たちと敵対。秦瓊が陣を破る際に威力を発揮し、「三度の锏打ちで銅旗を倒す」と謳われ、楊義臣はやむなく自害したとされる[5]。
学者の石岱氏は、史書に記された張須陀(ちょう しゅだ)について、「性格は剛毅果断で、勇気と策略を兼ね備えていた」と評している。また、人情厚く民を愛し、大業6年(610年)に斉郡の丞(じょう)を務めていた際、煬帝がたびたび高麗へ出兵したことで民の生業が失われ、飢饉によって食料価格が高騰した。張須陀は独自の判断で官倉を開き、民に食料を支給しようとした。配下の役人たちが「勅命を待ち、許可を得てからにすべきだ」と諫めると、張須陀はこう言い放った。「今、帝は遠くにおられ、使者を遣わして往復すれば、必ずや一年を経てしまう。民は危急存亡の秋にあり、報告を待っていれば、彼らは溝に捨てられるも同然だ。もしこのことで罪を得ようとも、死して恨みはない」と。そして事後報告で官倉を開き、民を救った。煬帝はこのことを知っても張須陀を咎めず、かえって賞賛したという。このように、張須陀は当時、人々から深く慕われた人物であり、隋唐時代に名高い豪傑・秦瓊や羅士信も彼の幕下に身を寄せていた。これらの事績が、後世の『説唐』における大隋の靠山王・楊林の原型となったと石岱氏は指摘する。楊林の原型については「隋朝九老」の一人・楊爽であるという説もあるが、楊林という人物の性格や事跡を詳細に検討すれば、その原型は張須陀であると結論づけている[6]。
学者の徐連達氏は、史書の記述に基づき、隋朝末期において、煬帝が反乱軍鎮圧のために依存した主要な将軍は、張須陀、薛世雄、楊義臣の三名であったと指摘する。これら三人の事績のいずれにも、楊林の面影を見出すことができるという。『説唐前伝』によれば、秦瓊は楊林の部下であり、楊林は北平王羅芸と旧交があり、瓦崗軍鎮圧の主要な将軍として描かれている。一方、史実においては、秦瓊は張須陀の部下であり、薛世雄は羅芸と近隣に駐屯し、楊義臣、薛世雄、張須陀はいずれも反乱軍鎮圧に尽力した隋朝の将軍であったとされる[7]。