楊立 (後唐)

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楊 立(よう りつ、生年不詳 - 924年)は、五代十国時代軍人

潞州の小校であった。はじめ昭義軍節度使の李嗣昭李継韜に仕え、いずれにも厚く待遇された。李継韜が殺害されると、楊立は憤りのあまり志を失った。同光2年(924年)4月、荘宗の命で潞州の兵3万人が涿州に駐屯することとなり、その兵たちが反発して100人あまりを集め、子城東門を攻め、潞州の州城は大混乱となった。昭義軍節度副使の李継珂と監軍の張機祚は潞州から逃亡した。楊立は留後を自称し、軍民を率いて節度使の位を求める上表をおこなった。荘宗は怒って、李嗣源李紹真に命じて攻撃させると、5月に潞州を落とした。楊立やその仲間十数人は捕らえられて洛陽に送られた[1]。6月9日、楊立らは市で磔にされた[2][3]

脚注

伝記資料

参考文献

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