楊邠
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若くして節度使の下で官吏をつとめた。後唐の租庸使孔謙の姪を妻に迎えた。孔謙が度支を領知すると、楊邠は勾押官に任じられ、孟州・華州・鄆州の糧料使を歴任した。劉知遠が鄴都留守となると、楊邠は左都押牙に任用された。劉知遠が太原府に駐屯すると、楊邠はますます信任された[1][2]。
天福12年(947年)、後漢が建国されると、楊邠は枢密使・検校太保に転じた。開封府・洛陽が平定されると、楊邠は枢密使・検校太傅に任じられた。高祖劉知遠が病床につくと、楊邠は蘇逢吉・史弘肇らとともに後嗣の劉承祐を輔弼するよう後事を託された[1][2]。
乾祐元年(948年)、隠帝(劉承祐)が即位すると、宰相の李濤が楊邠と郭威を節度使として出向させるよう上奏した。楊邠らは泣いて李太后に訴え、李濤を罷免させた。楊邠は枢密使のまま中書侍郎を加えられ、吏部尚書・同中書門下平章事を兼ねた。蘇逢吉らを憎み、蘇逢吉が任用した官吏に誤りが多かったため、官吏たちを罷免した。楊邠は官吏の仕事に精通していたが、富国強兵を重んじ、文章礼楽を虚事として軽視していた。河中節度使の李守貞の乱が平定されると、楊邠は尚書右僕射を加えられた。楊邠は宰相として国政を専断し、些細なことまで厳格であった。史弘肇が残酷をほしいままにしたが、楊邠は史弘肇の善を称するばかりだった。李太后の弟の李業が宣徽使の任を求め、隠帝と李太后がこれを楊邠に諮問したが、楊邠が強く反対したため、取りやめられた。隠帝は耿夫人を愛して、皇后に立てようとしたが、楊邠はこれに反対した。耿夫人が死去すると、隠帝は彼女を皇后の礼で葬ろうとしたが、楊邠はまたこれを止めた。このため隠帝の怒りを買った[3][4]。乾祐3年(950年)11月、楊邠は史弘肇や王章らとともに族滅された[5]。広順元年(951年)、後周の太祖(郭威)が即位すると、弘農郡王に追封された[6]。