土佐郡潮江村(現在の高知市)に楠目民助の長男として生まれる。楠目藤盛(清馬)の実兄にあたる。土佐藩政下では小南五郎配下の役人として活動した。
文久元年(1861年)、武市半平太を主領とする土佐勤王党の誓書に署名し、血盟連盟した勤王志士の一人であった。この時期、尊王攘夷運動に深く関与していたことが知られる。
明治3年(1870年)、小栗義宣らとともに兵部省糺問権少佑に任じられ、同年中に兵部大録へ転じた。明治4年頃には海軍裁判判事に任ぜられ、正七位に叙された。明治6年には従六位となる。
明治8年(1875年)4月9日、海軍中佐に任じられ、正六位に叙せられた。翌明治9年8月31日には本官を免ぜられ評事となり、明治10年には六等出仕。同年、中秘史に任じられ、裁判評事を兼務した。
明治13年(1880年)頃、勲五等に叙せられ、双光旭日章を授与される。明治15年6月、海軍権大書記官に昇進し、明治17年4月1日には東京海軍軍法会議主理に補された。
同年9月3日午後5時、病のため死去。享年48。墓所は青山霊園、また高知県高知市筆山にある。