榎美沙子
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ウルフの会への参加と離脱
徳島県名西郡神山町下分生まれ。実家は裕福な材木商[2]。徳島県立城東高等学校卒業後一浪して、1964年に京都大学薬学部に入学[2]。1968年の同大学卒業後は関東圏に転居し、友田製薬(現・共創未来ファーマ)に就職。大学卒業記念帳に記した夢は「人民軍総司令官」と「かわいい奥さん」で[2]、1969年には徳島大学医学部を経て医師となった高校時代の初恋の男性と結婚した[1][2]。
1970年秋、日本テレビアナウンサー村上節子(田原総一朗の後妻)、朝日新聞記者松井やよりなどの報道・出版関係者や、後にフェミニスト中国研究者として知られる秋山洋子らが進めていた、シュラミス・ファイアストーンなどアメリカのラディカル・フェミニストたちによる自主出版物Notes from the Second Year: Women's Liberationの翻訳グループに加わった[3]。
翻訳チームはその後ウーマン・リブグループ「ウルフの会」として活動を開始した。美沙子は1971年後半から72年初めにかけてウルフの会会員の協力を得て、当時は避妊薬としては認められず月経困難症などの治療薬として処方されていたピルの試用実験を実施。会員からは副作用の訴えが相次いだが、美沙子は他の会員からの了承を得ずに「ウルフの会・避妊とピル研究班」名義でパンフレット『ピルを解禁せよ』を発行し、1972年5月5日から7日にわたって開催された第1回リブ大会にて販売した。この一件で美沙子は他の会員から怒りを買い、以後ウルフの会の活動から離脱する[4]。
中ピ連代表
1972年6月14日には、「中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合」(中ピ連)を結成し代表となる。東京・高田馬場に本部事務所を構え、ピンク色のヘルメットをかぶっての街頭宣伝・デモ活動を行った。さらに1974年7月には「女を泣き寝入りさせない会」を発足させ、不倫している男性の下に集団で押しかけて吊るし上げる戦闘的な運動スタイルを取った。マスメディアへも積極的な露出を図り、代表である美沙子の「美貌」も相まって、中ピ連は注目を集めた[5]。ただ、当時のピルは副作用が大きく、それ自体が女性の体に悪影響を与え、かつ性病の蔓延を助長するという理由からあまり用いられなくなった。このため運動は下火になり、1975年に中ピ連は解散した。
日本女性党党首
1976年、オスが子育てをするタツノオトシゴをご神体とする宗教「女性復興教」を旗揚げし、自ら教祖となる。翌1977年、第11回参議院議員通常選挙に際し、中ピ連を母体として日本女性党を結成し国政進出を図るも失敗。開票日からわずか2日後の7月12日、同党は解散。美沙子は派手な衣服を身にまとい独特の選挙運動を行ったが、自身は選挙に立候補せず、「代表者が国民の審判を受けないのはおかしい」と選挙期間中からその態度に疑問の声が上がった。とりわけ、この選挙に立候補し落選した俵萌子(俵孝太郎の前妻。東京都選挙区から革新自由連合公認で立候補し落選)や吉武輝子(全国区に無所属で立候補し落選)ら別の女性解放運動家からは「なぜあなたは国民の審判を受けなかったのか」「あなたのせいで日本の女性解放運動は大きな誤解を受けた。嘲笑の的になった」「男性を排除しようというあなた方の主張は間違っている。日本女性党のおかしな運動のせいで私達の主張が有権者に伝わらなかったことが残念」と厳しく批判された。またピル解放によって利益を得る製薬会社や政治家との関係が暴かれたとされるスキャンダルも取り沙汰され[要出典]、城戸嘉世子ら日本女性党の同志の信望も失い、党は瓦解。以後活動もできなくなった。
その後のエピソード
美沙子の活動は日本社会にウーマンリブ運動の存在を初めて知らしめたものとの評価もあるが、世間には美沙子の奇矯なイメージのみが残った。
医師である夫[6]は美沙子の一連の活動に一切口を挟まず黙って見ていたが、選挙惨敗・日本女性党解散時のインタビューで「これで目が覚めただろう。選挙に出たので妻には莫大な借金がある。しっかり働かせて全額返済させる」と語り、美沙子も「以後、夫に尽くします」と家庭に入る。以後美沙子は夫の指示の下、主婦と薬剤師業に専念することになった。美沙子はそれまでの主張とは全く正反対の立場に置かれるという皮肉な結末を迎えた。借金完済後は夫に家を追い出され、1983年に協議離婚[7]。美沙子は京都市内にアパートを借りて一人暮らしを始め、更に数年後司法試験を目指して法律の勉強をしているという情報が雑誌『週刊新潮』に取り上げられた。
1992年には、みずからが事務所として一室を借りていた東京・新宿のマンションの立ち退きをめぐり、家主の日本バプテスト連盟から東京地裁に提訴されている[7]。このマンションの建物を日本バプテスト連盟が興和不動産に売却したにもかかわらず、美沙子が立ち退きを拒否したためであった[7]。当時、美沙子は、この裁判を機に「楽しく地上げと闘う会」を結成したと語っている[7]。また、
「意識して姿を消していたわけではありません。これからの運動の地ならしをして、気が付いたら十五年経っていただけです。今までは地道に組織作りに専念してきまして、その助走期間もようやく終りに近づきました。今、ジャンプに備えて身をかがめているところです」
「離婚してホッとしました。家族がいると行動が制約されるでしょう」
「女性解放運動は、私のライフワークです。ですから知的訓練を行なって、同志を育成してきました」
「生計は、翻訳で立てています。私の専門は生化学やバイオテクノロジーですが、幸いなことに、この分野の専門家は日本には少ないものですから、専門書を始め、技術文献、論文などを訳して日々の生活費にしました」
「中ピ連は、当時から非難囂々でしたが、その時の主張は今や社会の常識になりつつあります。その点、当時のタブーを破ったことは功績だと思っております。行動が過激だったなんて、少しも思いませんわ」
とも発言している[7]。
その後司法試験を受験した形跡はなく、ついに消息も不明となった。親族もその行方を知らないという[8]。
2024年6月、作家の桐野夏生が美沙子をモデルとした小説『オパールの炎』(中央公論新社)を発表[9]。執筆に際して美沙子のその後を調査したものの、消息は分からなかったという[10]。
主なテレビ出演
著書
- 『ピル』カルチャー出版社、1973年。
- 『ピルの本』大陸書房(ムーブックス)、1976年。
共訳書
- シュラミス・ファイアストーン編、ウルフの会訳『女から女たちへ アメリカ女性解放運動レポート』合同出版、1976年。