樋口宅三郎
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経歴・人物
樋口宅太郎の長男として1901年(明治34年)10月27日[1][2]、宮城県東多賀村(後の名取市)に生まれる[3]。父は家業[注釈 1]の網元を廃業。妻子を残し地元を出ると岩手県釜石の製鉄所に職を求めたが、一年程で辞め北海道に渡ったとされる。一家[注釈 2]は父を探して釜石まで来たものの行方が掴めず、祖母と母が釜石製鉄所で働き子供らを養った。そんな状況下で病を発症し左足の自由を失った宅三郎は、他の子供のように遊びや運動が出来ない代わりに、人一倍読書を好んだ。尋常小学校を卒業すると、祖母や母と同じ製鉄所で洗炭及びトロッコ記録係として共に労働[注釈 3][5]。その傍ら、月一円の早稲田中学講義録で独学しながら文士を夢見、新潮社の投稿雑誌「文章倶楽部」の常連となる。
1919年(大正8年)秋に製鉄所で労働争議が勃発。待遇に不満を覚えた職工たちはストライキを決行して所長・中大路氏道に詰め寄り、軍までが出動する大騒動となった[注釈 4]。この事件後に解雇された者たちの中に18歳の宅三郎もおり、海軍下士官の叔父や嫁いでいった姉がいる横須賀へ向かった[注釈 5]。一時は鎌倉の建長寺に身を寄せ、湘南義塾に通って受験勉強[6][注釈 6]をしていたが、街角にあった記者募集の張り紙を見つけて「相模中央新聞」の門を叩く。未経験だったが経験を問われた際にはあると答え、作文試験に合格して1920年(大正9年)10月に入社[10]。鎮守府と工厰を担当した。宅三郎は後年「もし(釜石での)解雇を免れていたら、私は新聞記者になることがなかったであろう」と回想録「砂に書く」に記している。
1922年(大正11年)に誘われて大阪の「大正日日新聞」に移るが、経営陣の交代があり退社。「横浜日日新聞」の支局開設にあたって声がかかり、1923年(大正12年)1月に横須賀支局長として神奈川に戻った。この年の9月1日、関東大震災が起こり社屋が全焼。縁あって10月より「軍港よろづ新報」の編集長を務める。1931年(昭和6)年3月10日、独立して「横須賀日日新聞」を創刊。同新聞社の社長に就任した[10][3]。
1940年代に入り国の方針として新聞統合が始まると地域の他紙が次々と廃刊。横須賀最後の一社となって「神奈川日日新聞」と改題。1942年(昭和17年)2月には横浜貿易新報の後身である神奈川県新聞と合併して一県一紙体制の「神奈川新聞」となり、同盟通信社社長の古野伊之助に推され宅三郎が社長を引き受ける。1945年(昭和20年)5月29日、横浜大空襲で社が全焼したため休刊 [3]。終戦を経て同年11月に再開。1946年(昭和21年)2月、社長に朝日新聞から佐々木秀雄を招いて自身は取締役会長に退いた[11][12]。1968年(昭和43年)2月より取締役相談役[3]。1982年(昭和57年)4月14日、急性肺炎のため死去[13]。80歳没。
著書
- 『人生の路次』海国社、1943年