1782年に権藤寿達の嫡子として出生。17歳で父を失えば、伯父に相談した結果、田地や家屋を一切売り払い、亀井南冥の門に入る。亀井南冥の没後は亀井昭陽について学び、広瀬淡窓らと共に筑後川辺の三秀人と称されるほどになった[2]。
1814年には華岡清洲の春林軒に入塾して麻酔薬を使用した外科医を修める。讃岐で開業していたが、さらに技術を磨くために江戸に出て次々と医師を訪れて学問をして、平戸で松浦静山に藩医を謂われたが、その依頼を辞して長崎に行き密かにオランダ医学を学んだ[2]。
文政のはじめに久留米に戻れば樺島石梁に藩医となるように強く勧められたもののこれを固辞して府中で開業する。府中では2つの塾を開き、1つの塾では文芸を指導して、もう一つの塾では医学を指導するなど、郷土の若者の教育に尽力する[2]。
安政年間に久留米軍医制度の先鞭をつける。明治になれば医師を辞めて農業を行っていた[3]。