橋本徹郎
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- 兵庫県加古川郡に生れる。
- 関西美術院で洋画を学び、卒業。
- 昭和の初めから二科会に入選し、1932年第29回二科展から会友となった(しかしその後出品なし。下記外部リンクの作品リストを参照)。
- 1932年には、新建築工芸学院の講師に就任。
- 1940年には日本写真工芸社の設立にかかわり、設立後総務部長を務めている。
- 1940年のニューヨーク万国博覧会(後期)の国際館カヴァードスペース日本部に展示された写真壁画4つのうちの1つ「日本産業」(産業日本)の構成を担当(写真は、土門拳、田村茂、溝口宗博、伊藤幸男の4人。印画引伸はジーチーサン協会)
- 1944年7月に陸軍美術協会が発行した『絵巻アッツ島血戦』には、橋本の作品が掲載されている。空席通信On The Net(表紙図版あり)
- 戦後、二科会を離れ、第二紀会の創立に参加して同会の会員となった。作品は、従来の写実風景から抽象的な構成へと推移した。
- 1954年には、桑沢デザイン研究所の教員も務める。沿革 ― 本学園の歩み ―
関連する展覧会
- 近代デザインの展望(京都国立近代美術館、1968年2月28日~3月26日)
- 橋本の手になる華北交通株式会社(1904年)のポスターが出品されている。
- 京都国立近代美術館による紹介(出品リストあり)