橋本正勝 (陸上自衛官)

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渾名 「橋本憤人」[1]
死没 (1972-02-04) 1972年2月4日(59歳没)
橋本 正勝
渾名 「橋本憤人」[1]
生誕 1912年8月21日
日本の旗 日本 佐賀県佐賀郡金立村
(現・佐賀市)
死没 (1972-02-04) 1972年2月4日(59歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
陸上自衛隊
最終階級 陸軍中佐
陸将
親族 小須田勝造(岳父)
除隊後 民間企業顧問
墓所 平林禅寺[2]
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橋本 正勝(はしもと まさかつ、1912年(大正元年)8月21日[3] - 1972年(昭和47年)2月3日[1])は、日本の元陸軍軍人及び陸上自衛官。陸士45期(砲兵)、陸大53期恩賜。最終階級は中佐、陸将。3代目第2師団長、5代目第1師団長を経て8代目北部方面総監

佐賀県金立村(現・佐賀市)出身[4]。父は陸軍予備役少佐(15期)で、小学5年生の時に死去[1]。佐賀中学校を経て陸軍士官学校を45期生として卒業。原隊は野砲兵第24連隊陸軍砲工学校に入学するも高等科には進まなかった[1]。その後、陸軍野戦砲兵学校を経て陸軍大学校を恩賜卒業。

関東軍参謀、陸軍省軍務局課員を経て、大本営陸軍部第20班(戦争指導部)。1944年(昭和19年)正月以降、同班では班長の松谷誠大佐を中心にソ連を仲介とする終戦工作を模索しており、同年7月1日、松谷大佐、種村佐孝大佐とともに昭和20年春を目途とし、「今後帝国は形成挽回の目途なく、今後ジリ貧に陥るべきをもって、速やかに戦争指導を企画するを可とする」と決定した[5]。また、1945年(昭和20年)4月、第2総軍が新規編成されると、郷里が九州だったため、「中央で思索する時期は過ぎた。第一線で討ち死にするしかない」と同作戦参謀への転属を希望[6]。同年8月6日の広島市への原子爆弾投下の際は、第2総軍司令部参謀室(爆心地から1.3キロ)にて大屋角蔵中佐とともに被ばく。爆風により廊下にたたき出され重傷を負った[1][7]。部屋の中に閉じ込められていた高級参謀の井本熊男大佐を救出したのち二葉山防空壕に避難していたところ、救護に派遣されて来た山崎増一海軍大尉と緊急対策について協議し、また自身も手当を受けた[8]

戦後は復員局資料整理部(服部機関)に属したのち陸上自衛隊に加入。第1特科連隊長(副隊長とも)、札幌駐とん地司令、第2師団長を経て、第1師団長。1966年の英国海外航空機空中分解事故台風26号での足和田村災害では東富士演習場より災害派遣[9][10]。北部方面総監で退職。

日本電気や日本アビオトロニクス(現:日本アビオニクス)顧問を務めていたが[11]、1972年2月3日午前1時ごろ急死。戒名は永隆院徳誉広学純正居士。

年譜

  • 陸軍士官学校予科入学(第3中隊第4区隊)[12]
  • 1933年(昭和8年)
    • 7月11日:陸軍士官学校本科卒業(第4中隊1区隊)
    • 10月20日:少尉
  • 1935年ごろ:陸軍砲工学校卒業
  • 1936年(昭和11年)1月:陸軍野戦砲兵学校入学(情報学生)
  • 1938年(昭和13年)6月11日:陸大入学
  • 1940年(昭和15年)6月17日:陸大卒業
  • 1941年(昭和16年)7月16日: 関東防衛軍第4課経済参謀
  • 1943年(昭和18年)
    • 1月15日: 陸軍省軍務局課員
    • 11月10日:大本営陸軍部第20班(戦争指導部)
  • 1945年(昭和20年)
    • 4月6日:第2総軍第一課参謀(作戦主任)
    • 6月10日:中佐
  • 1954年(昭和29年):陸上自衛隊入隊
  • 第一特科連隊長(副隊長とも)
  • 1957年(昭和32年)時点:統合幕僚会議事務局第3班(長:三上作夫海将補)[13]
  • 1958年時点:統合幕僚会議第3室(長:十川潔海将補)室長補佐[14]
    • 3月:第3室長[15]
    • 北部方面総監部第3部長
  • 1960年(昭和35年)
    • 1月:北部方面総監部幕僚副長
    • 7月:陸上幕僚監部第5部副部長[16]
  • 1962年(昭和37年)8月1日:北部方面総監部幕僚長兼 札幌駐とん地司令
  • 1964年(昭和39年)3月16日:第2師団長
  • 1965年(昭和40年)
  • 1968年(昭和43年)3月16日:北部方面総監
  • 1970年(昭和45年)7月1日:退職

親族

脚注

参考文献

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