欒巴
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若くして道学を好み、俗事を修めなかった。順帝のとき、宦官として後宮に仕え、黄門令に任じられたが、その仕事を好んでいなかった。性格は実直で、宦官でありながら、常侍たちと交流しようとしなかった。後に男性的な特徴が現れてきたため、引退を願い出たが、抜擢されて郎中に任じられた。4回転任して桂陽太守となった。桂陽郡は南方にあったことから、儒教的な教化が緩かった。欒巴は郡の官吏や民衆のために婚姻や葬儀の礼を定め、学校を建てて教化を進めた。官吏の能力も低かったため、読み書きを習わせ、試験で優秀だった者を昇任させた。太守として行政をみること7年、病を理由に引退を願い出た。
荊州刺史の李固が欒巴の治績をみて朝廷に推薦すると、欒巴は洛陽に召還されて議郎に任じられ、光禄大夫を代行した。杜喬・周挙ら8人とともに州郡を巡察した。
欒巴は徐州に赴いて巡察し、洛陽に帰ると豫章太守に任じられた。沛国の相に転じた。任所で治績を挙げて洛陽に召還され、尚書に任じられた。順帝が死去し、憲陵が造営されたが、陵のそばには民衆の墓があり、そのほとんどが破壊されたため、欒巴は上書してこれを諫めた。このとき皇太后の梁妠が臨朝称制していたが、朝政を誹謗したとされ、欒巴は投獄され、家に帰されて禁錮とされた。
168年(建寧元年)、霊帝が即位すると、大将軍の竇武と太傅の陳蕃が輔政にあたり、欒巴は召し出されて議郎に任じられた。陳蕃と竇武が殺害されると、欒巴はその仲間として永昌太守に左遷された。欒巴は病と称して赴任せず、陳蕃と竇武の冤罪を上書して訴えた。霊帝は怒って、欒巴を責める詔を下し、その身柄を廷尉に送った。欒巴は自殺した。
子に欒賀があり、官は雲中太守に上った。