欧州防衛共同体

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欧州防衛共同体(おうしゅうぼうえいきょうどうたい、European Defence Community, EDC, 以下 EDC)は、1950年フランス首相ルネ・プレヴァンが提唱した、汎ヨーロッパ防衛軍を組織する構想である。本項では、発効しなかった欧州防衛共同体条約(EDC 条約)についても述べる。

1950年10月24日、プレヴァンがフランス国民議会に提唱した、西ドイツの再軍備を実行しながら、ドイツ軍国主義の再燃をによる新たな争いを抑止する、超国家的な軍事機構である。また、欧州大陸の西側陣営を一つの軍隊として統合させることで、ソ連・東欧などの東側陣営に対抗することも目的とされていた。

起源

第二次世界大戦の記憶がまだ癒えない当時、アメリカ合衆国フランスとの間では、アメリカが進める西ドイツ再軍備をめぐり対立が生じていた。EDC は、東側諸国との衝突の際には西欧諸国が共同して組織する汎ヨーロッパ防衛軍が対処するという構想であり、ドイツ再軍備の遅延やドイツの NATO 加盟自体を阻止する対案としてフランスの首相ルネ・プレヴァンにより提唱されたものである。EDC 条約には、西ドイツ、フランス、イタリア、およびベネルクス諸国が加盟する計画だった。

経過

これらの各国は1952年5月27日に EDC を具体化する EDC 条約に調印したが、第二次世界大戦でのドイツによる攻撃の記憶が色濃く残っているため、各国は条約の批准については非常に懐疑的であり、この傾向が最も顕著であったのが、フランスであった。この条約が発効することはなかった。仮に EDC 条約が発効していれば、各国家ごとに区分された部隊をもつ、超国家的な汎ヨーロッパ防衛軍が創設されるはずであった。この汎ヨーロッパ防衛軍は特徴的な指揮権が想定されていた。つまり、汎ヨーロッパ防衛軍のうちの西ドイツの部隊が EDC の指揮を受けるのに対し、他国(フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、およびルクセンブルク)の部隊は出身各国政府の指揮を受ける、というものであった。これはドイツ軍国主義復活への恐れを取り除く措置であり、西ドイツが軍事力を保有したとしても西ドイツ政府には指揮させないことを目的としていた。なお、条約には規定を欠いていたものの、西ドイツ軍の拒否があった場合には西ドイツ政府がその軍隊の指揮を執ることが合意されていた。また、汎ヨーロッパ防衛軍は共通の予算、武器、制度を持つこととされており、その結果、各国部隊のための軍需物資の調達は集中して行われることになっていた。

破綻

この構想が破綻したのは、フランスが議会(フランス国民議会)における批准に失敗したことが原因である。

批准失敗に繋がる大まかな要因は、国内的な要因と国外的な要因であり、両者は密接に絡み合っている。国内のみの要因で示すことができるものとしては、西ドイツの再軍備は認めながらも、EDCという方式に反対する考えがある。次に、国内要因と国外要因が関係するものとしては、共産主義者・中立化推進派及びド・ゴール派を挙げることができる。フランス国内の共産主義者や中立化を推進した者は、ソ連や東側陣営を念頭に置き、EDCだけでなく、西ドイツの再軍備自体に反対をしていた。他方、フランスの独自路線を重視するド・ゴール主義者たちは次のような懸念を抱いた。ゴーリストは、インドシナ紛争において、フランス軍はディエン・ビエン・フーを奪われ、フランスの象徴たる陸軍が敗北し、その上、EDC 条約が軍隊に関する主権を奪うことは、フランスの主権や憲法に基づくフランス共和国の不可分性を侵すものであり、かえって EDC が西ドイツの再軍備を促しかねない、と懸念した。1954年8月30日、EDC 条約の批准法案は国民議会(下院)にまわされたが、ゴーリストたちの反対により 264 対 319 で否決された。

上記各懸念とともに問題となったのは、1950年にプレヴァンが出したオリジナルの案(プレヴァン・プラン)と1954年に議会に回された案との間の相違点だった。1954年の法案ではプレヴァン・プランに比べ、部隊統合案が大隊レベルから師団レベルに拡大されていたばかりか、さらに指揮系統にも変更が加えられ、汎ヨーロッパ防衛軍の作戦責任者にはNATO最高司令官が当たることにもなっていた。そこでEDC条約に対する悪評をなだめるため、時のフランス首相マンデス=フランスは、追加議定書を他の条約加盟国に批准させようとした。この議定書は援護部隊のみの統合や、その部隊展開をドイツ国内のみとすること、そして予算や管理などの事情に関しては各国ごとの権利行使を大幅に認めることなどを含んでいた。つまり、この追加議定書は、フランスにとって有利であるものの、EDC の構想自体を骨抜きにする内容を含むものであった(余談であるが、西ドイツの再軍備という視点から見ると、研究者によってマンデスへの評価は大きく異なり、細谷雄一氏や金子譲氏などは、マンデスはEDCへの興味関心がなかったと主張するのに対し、岩間陽子氏は西ドイツ再軍備自体は必要であるが、EDCという手法が国内で受け入れられない状態であるがために、EDCの改革を提案したという立場を示している)。

イギリスは、基本的には EDC に賛成していたものの、その賛成は、超国家的組織の側面がより削減されれば加盟するという条件付きのものであった。アメリカは EDC の成立自体に消極的だった。

その後

フランス国民議会での EDC 条約の批准失敗後、アンソニー・イーデンが示した「ブリュッセル条約拡大による西欧同盟(所謂、イーデン・プラン/Western European Union ; WEU)」を、1954年9月28日から10月3日にかけて、ロンドンで議論した後、パリにおいて、10月22日には、西ドイツのNATO加盟が全会一致で承認され、翌23日は「パリ条約」が調印された。具体的には、西ドイツの主権回復やNATO加盟、WEU、ザール問題などが含まれていた。

フランス国民議会は当初、西ドイツの再軍備を拒んだが、ピエール・マンデス=フランスが自らの信任をかけ、国民議会で採決を行うと、これを承認した。

これを受けて1955年にはドイツ連邦軍が誕生した。これ以後も欧州共同体の加盟諸国は超国家連合形成に取り組んだ。例えば、シャルル・ド・ゴールの提案による、外交政策の共同化を進める政治的国家連合を作るフーシェ・プラン英語版の実現が模索された。なお、このフーシェ・プランは、伝統的に欧州懐疑主義的・反大西洋主義的な性格の強いオランダの拒否権行使により葬り去られた。

ヨーロッパの外交政策の統一は、三度目の試みとなる1970年欧州政治協力 (European Political Cooperation, EPC) によってようやく確立した。これは欧州連合共通外交・安全保障政策 (Common Foreign and Security Policy, CFSP) の前身である。

現在、EDC が担うはずだった欧州共同防衛の機能のいくつかが、欧州連合西欧同盟、NATO によって担われている。しかし、EDC の予定していた超国家軍を創設するまでの試みはまだ行われていない。

関連項目

参考文献

外部リンク

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