母性保護論争

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母性保護論争(ぼせいほごろんそう)は、1918年から1919年にかけて、働く女性子育てについて繰り広げられた論争。女性の社会的、経済的地位の向上の方法論をめぐる与謝野晶子平塚らいてうの議論から始まり、のちに山川菊栄山田わかが合流して繰り広げられた。この論争には島中雄三山田嘉吉(山田わかの)ら男性も加わり、新聞にも賛否様々の投書が送られた。

発端となったのは、大正7年(1918年)3月の『婦人公論』に載った「女子の徹底した独立」という、与謝野晶子による小文である。その内容は、エレン・ケイの「母性保護」移入思想に反対したもので、国家に保護を求めようとする、保護を受けようとする精神は依頼主義である等の理由から「母性保護」に反対したものだった[1]

これに対し、エレン・ケイの著作に傾倒していた平塚らいてうが反論を行い、「母性保護」の是非や、「職業」と「家庭」の両立という問題を論点として、「母性保護論争」が展開していくこととなる。

なお、この論争以前からエレン・ケイの著作や思想の解釈をめぐる意見の相違が与謝野晶子と平塚らいてうの間には存在している。1916年、2月の『太陽』において、晶子はケイやトルストイの思想を「母性中心説」としており、「女が世の中に生きて行くのに、なぜ母となることばかりを中心要素とせねばならないか」と疑問を呈している[2]。それに対し、らいてうはケイが母性のみを絶対に尊重しているわけではないとして、ケイがなぜ母性を重視するか、婦人労働の禁止を主張するか等、ケイの言葉の意味を説明することで反論を行っている[3]

各人の主張

与謝野晶子

与謝野晶子は国家による母性保護(妊娠分娩期の婦人が国家に経済上の保護をしてもらうこと)を「奴隷道徳」「依頼主義」と否定。論争の発端となった小文では「既に生殖的奉仕に由つて婦人が男子に寄食することを奴隷道徳であるとする私達は、同一の理由から国家に寄食することをも辞さなければなりません」と述べている。そして、男子に子供を育て得るほどの経済上の保障があっても、女子にそれだけの経済上の保障がないなら結婚や分娩は避けるべき、として女性の経済的独立を主張した[4]

平塚らいてうが「母の経済的独立は、余程特殊な労働力のあるもの以外は不可能である」と与謝野晶子に主張した際は、男女相互の経済的独立心が旺盛にさえなれば労働制度の改造が実現する、富の分配を公平にする制度さえ人間が作れば労働婦人が安全に結婚し分娩し得る時代を実現できる、と反論している[5]。また、晶子は貧困家庭の母に関しては国家の補助を行うことについては否定しておらず、「平塚さんが「母の職能を尽くし得ないほど貧困な者」に対して国家の保護を要求せられることには私も賛成します」と述べている[6]

さらに、労働が女子にとって重荷であると反対する人々は、経済的労働=工場労働を意味するものと考え、それが反対説を出す原因となっていると主張した。その中で、工場労働の弊害は未来の工場労働からはなくなり、現に少しづつ改善されていることを示したり[7]、反対論者は家内工業の存在を看過しているとした。そして、私は一切の女子に屋外労働を強要しておらず、個人の体力、知力、技能、境遇等に適した職を取り、経済的・精神的に自活することを求めている、とした[8]

平塚らいてう

平塚らいてうは「子供の数や質は国家社会の進歩発展にその将来の運命に至大の関係あるものですから、子供を産み且つ育てるといふ母の仕事は、既に個人的な仕事ではなく、社会的な、国家的な仕事なのです」と述べ、母性保護は慈善事業ではなく国家として行うべき政策だと主張し、妊娠出産育児期の女性は国家によって保護されるべきと唱えた[9]

与謝野晶子の「依頼主義」に関する主張については、女性は「母の仕事」という社会的事業を行っているとして「もし官吏や軍人や教育者や代議士が俸給をとることが恩恵に与ることでないなら、同様の意味で、母が国家から報酬を受ることも恩恵に与ることではない筈です」[10]と反論した。

また、婦人が経済的独立を計ろうと思えば、当然職業を持つことや屋外労働をせねばならず「よき母になろうと思えば、よき職業婦人にはなり得ず、よき職業婦人になろうと思えば、よき母とはなり得ないヂレンマ」に陥る[11]として、家事と仕事の両立は余程特殊な労働力のあるもの以外は不可能であると主張した。与謝野晶子の経済的保障のない女性は結婚や分娩を避けるべきという主張については「まづ現代大多数の労働者の婦人は生涯結婚し分娩し得る時は来ないものと観念してゐなければなりますまい」といい、子供を産み得る婦人を生涯若しくは長期間独身者として労働市場に置くことだと批判し、国家にとっても大損失だとしている[12]

山川菊栄

女性解放思想家山川菊栄は、与謝野晶子と平塚らいてうの主張の双方を分析し、晶子の主張を母権主義、らいてうの主張をそれに対抗した母性主義と評価した。

与謝野晶子が育児期の婦人は労働が可能で国家の保護は無用、有害としているのに対しては、育児があるために家庭外労働をするのは困難で、育児という社会的任務をしている婦人が社会に扶養されるのは不自然ではない、とした。

また、乳母保母等、他人の子女の保育を行う者に世人が当然の支払いを拒んでいない以上、どうして我が子を育てる婦人が寄食者と同一視されねばならないのか、家庭における婦人の労働は不払い労働ではないか、と述べた。そのため、菊栄はらいてうと同様に家庭労働に経済的価値を与えるべき、とした。そして、これは家庭で社会的任務をして正当な支払いを得る行為なので、晶子が言っている婦人の経済的独立と背反しない考えだと主張した[13]

2人の主張の分析を行った後、最終的に菊栄は、晶子の婦人の経済的独立も、らいてうの母性保護にも一面の真理があることを認めつつ、2人の希望が十分に実現したところで婦人問題の根本的解決にはならないと述べた[14]。そして、その根本的解決を婦人問題を惹起し盛大にした経済関係その物の改変に求める菊栄は、現在の経済関係に対する措置を講じない点に2人の誤謬がある[15]、と社会主義の立場から述べた。

山田わか

「母性保護」に関する主張内容は、ほぼらいてうと一致しており「会社又は工場に働くことは個人的の仕事ではありますが、子供の養育は国家的の仕事であります」[16]「母としての婦人が夫から、又は、国家から其の生活費を得る事は婦人の当然の権利」[17]と述べている。また、民法が男子に妻や子供に対する扶養の義務を規定していることに対し、男子に妻や子供を隷属させていると述べ、婦人は一家を主宰し、子供を養育する報酬として男子に金を支払わせる、貰うのではなく「納めさせる」ということにしなければならないと主張した[18]。らいてうと異なる点として、わかは女性の天職は家庭にあるとしていた。

晶子の主張していた労働制度の改造については、婦人が労働界に行けば労働制度が鋳直されるというのは見当違いと主張。その根拠として、安い労働婦人が増えると逆に労働制度が乱される、労働界の革新には力ある労働者の結託が必要だが、男子ほどの能率を出せない婦人労働者が増えると、それだけ労働界の統一が難しくなるといったことを挙げた。

その上で、労働界を鋳直そうとするなら、婦人が労働界に行くよりも、有力・確実な労働者を造ることが大切だと主張。夫人は家庭で夫の能率を増す工夫を凝らし、未来の確実な労働者、自個の権利を資本家に主張し得る人物を造ることで、与謝野晶子が理想とする「富の分配の公平な幸福な時代」が実現できるとした[19]

関わった人物

脚注

関連項目

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