毛利喬
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軍歴
父は紀州徳川家家臣 毛利太郎左衛門家 毛利貞次郎。妻は彦根藩主 井伊家の家臣 三宅庄左衛門家 三宅太郎三女 末(スエ)。
1939年(昭和14年)夏、毛利部隊(第104師団歩兵第137連隊)が広東省潮州に入城した際、『韓山は韓退之(韓愈)の遺跡だから破壊するな』と、韓江対岸の韓山麓から抵抗する中国軍に対し、戦闘の不利を忍んで砲撃を禁じた事により、『白鸚鵡賦』と記された韓愈の筆による碑は守られた[3]。
1939年(昭和14年)10月20日、毛利喬、竹原三郎両少将 門司港に帰還。翌21日 下関港を出発、22日 釜山港上陸。25日 第二次ノモンハン事件後の国境防衛隊として第7師団はハンダガイ地区に屯営。
1940年(昭和15年)1月9日、ハンダガイ地区国境防衛を歩兵第13旅団と交代し、歩兵第14旅団はチチハルに駐留。9月24日 内地帰還の為ハンダガイを出発、10月7日 小樽港上陸、10月9日 第7師団 旭川に帰還。10月17日 第7歩兵団司令部編成完結、歩兵第14旅団は第7歩兵団となる。同日 第7歩兵団長。
1940年(昭和15年) 10月21日 午前10時 旭川練兵場において、北部第一部隊長・諸兵指揮官として、紀元二千六百年祝典観兵式を施行[4]。
1941年(昭和16年)3月1日 第7師団司令部附。8月1日 兵務部長。
1942年(昭和17年)8月1日 南方軍総司令部附。8月3日 旭川を出発、同日台北着。8月12日 台北を出発、同日西貢着。8月14日 西貢を出発、同日 昭南島着。9月5日 第16独立守備隊編成下令、9月10日 第25軍第16独立守備隊長。10月2日 昭南島を出発、同日東南アジア有数の大油田があるパレンバン(スマトラ島)着。10月14日 パレンバンを出発、同日ラハト着。10月31日編成完了、翌年1943年(昭和18年)4月30日にかけて南部スマトラ島警備。5月1日から10月にかけて南部スマトラ島防衛。10月1日 第46師団 兵務部長。10月21日 パレンバンを出発し、10月27日熊本に帰還。
1943年(昭和18年)10月29日 留守第6師団 兵務部長。
終戦の3カ月前に現役軍人を退き、1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]。
1957年(昭和32年)に68歳で生涯を終える。
- 1901年(明治41年)5月31日 陸軍幼年学校卒業。同日仕官候補生として第4師団 歩兵第37連隊入隊。12月1日 陸軍士官学校入学
- 1910年(明治43年)
- 5月28日 陸軍士官学校第22期卒業
- 陸軍歩兵少尉 第4師団 歩兵第37連隊附
- 1913年(大正2年)12月9日 陸軍歩兵中尉
- 1920年(大正9年)
- 4月9日 陸軍歩兵大尉
- 5月26日 第4師団歩兵第37連隊中隊長
- 1921年(大正10年)4月20日 第4師団 歩兵第37連隊 大隊副官
- 1922年(大正11年)8月15日 堺連隊区司令部部員
- 1923年(大正12年)4月23日 堺連隊区副官
- 1924年(大正13年)3月15日 第4師団司令部附
- 1927年(昭和2年)5月24日 陸軍歩兵少佐 第3師団歩兵第18連隊附
- 1928年(昭和3年)1月14日 豊橋連隊区司令部員
- 1930年(昭和5年)8月1日 第3師団 歩兵第18連隊 大隊長
- 1932年(昭和7年)
- 8月8日 陸軍歩兵中佐 第3師団 歩兵第6連隊附
- 9月3日 第3師団 軍法会議判士
- 1934年(昭和9年)
- 4月1日 第3師団 歩兵第6連隊附
- 12月13日 第3師団 副官
- 1936年(昭和11年)8月1日 陸軍歩兵大佐 第3師団 司令部附
- 1937年(昭和12年)11月1日 富山連隊区司令官
- 1939年(昭和14年)
- 1940年(昭和15年) 10月17日 第7師団 第7歩兵団長(第7歩兵団は歩兵第26連隊、歩兵第27連隊、歩兵第28連隊の3個歩兵連隊を管轄)
- 1941年(昭和16年)
- 3月1日 第7師団 司令部附
- 8月1日 第7師団 兵務部長
- 1942年(昭和17年)
- 1943年(昭和18年)
- 1944年(昭和19年)
- 6月5日 第6師団 軍法会議判士
- 4月1日 熊本師管区 兵務部長
- 4月30日 侍命被仰附
- 5月1日 予備役被仰附