豊臣家に仕えていた今木源右衛門(のち浅井一政。以下浅井とする)による大坂夏の陣の記録『浅井一政自記』によれば、慶長20年(1615年)5月7日に大坂城月見櫓において、渡辺糺およびその母正栄尼に続いて切腹しようとした浅井を、「毛利長門」と津川近治が阻止して連れ出した。浅井は翌朝、豊臣秀頼の命で城外に使者として(おそらくは淀殿助命のための交渉のため)出され、大坂の陣を生き残っている。
『浅井一政自記』についての論文を記した堀智博は、原文の「毛利長門」に「勝永ヵ」と注釈しており、本文では毛利勝永のこととして論を進めている。『大坂御陣覚書』には、毛利豊前守(毛利勝永)の子息として「長門守」の名が挙げられている[4]。毛利勝永の嫡子で、父とともに大坂方で参戦した人物として毛利勝家(式部)がいるが[5][6]、夏の陣の際には16歳であり[5]、大坂落城時に父とともに自刃した[5][6]。