民主主義と教育
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『民主主義と教育』の中で、デューイは、重要な避け難い事実として、社会集団の構成員である個々の人間が、生まれ、死んでいくことがあり、そこに教育の必要性が成立すると論じる。一方には、新たに生まれた成員(彼らこそがその集団の未来の代表者である)の未熟と、すでに成人となって集団の知識や慣習を共有する成員のした成熟との対照がある。他方には、未熟な成員たちを、単に頭数の上で確保する必要があるだけでなく、成熟した成員たちの関心、目的、情報、技能、実践などへの手解きをする必要がある。さもなければ、その集団は、集団としての特徴をもった生活を失うことになる。
デューイは、「野蛮な (savage)」部族においてさえ、成人たちの達成したものは、未熟な成員たちが仮に何も伝えられないまま放置されたとしても自力で獲得できるであろう範囲を、遥かに超えるものになっていると考える。文明の発達とともに、未成熟な者が元々備えている能力と年長者の標準なり慣習との隔たりは大きくなっていく。単に、肉体的に成長し、生存に必要な術を修得するだけでは、集団の生活を再生産するには十分ではない。意識的な努力と思慮深く苦痛も伴う努力が必要になる。人は生まれた時には、社会集団の目的や習慣を知らず、まったく無関心であるが、彼らはそれらを認識し、積極的に関心を持たなければならない。デューイによれば、教育が、そして教育だけが、この隔たりに架橋するのだという。
評価
デューイの理念はアメリカ合衆国の公立学校における実践に、広く深く反映されることはなかったが、彼が提唱した価値観や用語の一部は、広まっていった[2]。ポスト冷戦期に入ると、教育改革や教育理論に関わる数多くサークルにおいて進歩主義教育が、新たに成長を遂げた探究学習や探究科学 (inquiry-based science) の分野で再登場するようになっていった。
一部の論者[誰?]は、デューイの哲学的人間学が、キーラン・イーガンや、ジャンバッティスタ・ヴィーコ、エルンスト・カッシーラー、クロード・レヴィ=ストロース、フリードリヒ・ニーチェなどの議論とは異なり、近代思想の起源の説明を美学、より厳密には神話には求めず、その代わりに、古代人たちの元々の職業や生業に、そして最終的には科学史に向かったことが、事態を面倒にしていると論じている[3]。このアプローチに対するひとつの批判は、美学によって説明可能な文化制度の起源について、何も説明しないというとことにあった。デューイの哲学的人間学において、言語とその発達は、中心的な役割を果たすものではなく、むしろ認知能力の帰結であるとされた[3]。
日本への紹介と日本語訳
本書は、原著の刊行直後から、日本にも様々な形で紹介された。三浦関造は1918年の『教育文学十講』において「第九講 民主主義と敎育(チュエイ)」と題した章を設け[4]、佐藤熊治郎は1920年の『三大教育学説の約説と批判』において「ジヨン デウヰー氏 民本主義の敎育學說」と題した章を設け[5]、それぞれ本書の内容を紹介した。
1927年に春秋社が刊行した『世界大思想全集 第49巻』には、田制佐重による抄訳が収録された[6]。
第二次世界大戦後、連合国軍占領下の日本では、本書への関心が高まり、1946年には三松荘一による『デュウイ「民主主義と敎育」要解』[7]や、山崎久藏による抄訳『民主主義と教育の要約』が刊行された[8]。
1950年には、帆足理一郎による訳書『民主主義と敎育』が春秋社から刊行され[9]、1959年には、改訂新版が刊行された[10]。1975年には、松野安男訳による岩波文庫版が、上下2冊で刊行された[11][12]。