民部省 (明治時代)
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所管業務
沿革
→民部卿の一覧については「財務大臣 (日本) § 民部・大蔵卿」を参照
漸進論的改革を唱える岩倉具視、大久保利通一派(薩摩藩)と急進論的改革を唱える三条実美、木戸孝允一派(長州藩)の対立が主な原因であり、徴税(民部省)と財政(大蔵省)機構の一体化による中央集権体制の確立を主張する木戸孝允一派の官吏が強く推進した結果である。地租改正の方針について、民部省は地方民の窮状に接して、その減税要求をいれようという立場に立ったのに対し、大蔵省は財政支出の増加に対処して収入の確保を必要と考えていたからである[5] 。ただし、形式上は両省とも存続され、卿以下少丞以上の幹部が両省の役職を兼ねる(例えば、民部卿兼大蔵卿・松平慶永、民部卿兼大蔵卿・伊達宗城、民部兼大蔵大輔・大隈重信、民部兼大蔵少輔・伊藤博文、民部大丞兼大蔵大丞・井上馨など)ことで統一されたため、「民部大蔵省」とも称された。
一方、大久保利通・広沢真臣・副島種臣・佐々木高行の4参議が地方官の支持を受けて[注 1] 再分離を求めた。その結果、明治3年7月10日(1870年8月6日)に大久保が主導して両省の再分離が決定された。だが、大久保の主張した旧幕臣官吏の追放[注 2] が認められず、租税については一括して大蔵省が担当することになったために両者の対立が続いた。
明治3年8月9日(1870年9月4日)に社寺掛を設け、明治3年閏10月20日(1870年12月12日)に寺院寮と改める。
その後、明治3年閏10月20日(1870年12月12日)に殖産興業を推進する工部省が民部省から分離され[2]、明治4年7月27日(1871年9月11日)に改めて、民部省は大蔵省に合併されて廃止された。