水之江浩
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豊前国宇佐郡日足村[4](大分県宇佐郡北馬城村、宇佐町を経て現宇佐市)に佐藤継信(楽山)の五男として生まれ、1856年6月(安政3年5月)に宇佐郡水崎村[4](宇佐郡封戸村を経て現豊後高田市)の素封家・水之江家43代・久衛(号・奇峰[4])の婿養子となる[2][4][5]。1871年(明治4年7月)家督を相続した[2]。
家業の製塩業を営む[4]。養父の遺志を継いで溜池の築造を継続して耕地の拡大に尽力[4][5]。また、小学校校舎の建築、道路・橋梁の整備などにも多額の寄付を行った[4][5]。長らく中絶していた宇佐神宮の放生会を1900年(明治33年)[注 1]に再興を実現した[4][5]。
1881年(明治14年)大分県学務委員に就任[3]。帝国議会開設に伴い1890年(明治23年)の初回貴族院多額納税者議員選挙で互選され[4]、同年9月29日[6]から1897年(明治30年)9月28日まで在任した[3]。
