水口細工
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生産量の推移

1842年(天保13年)には水口宿内に5軒の藤細工屋があり、1843年の製造数は40,000個、売上高は500両[2]。
明治維新後は需要が減少していたが、1872年(明治5年)に初めて日本国外への輸出も始まり[2]、翌年のウィーン万博での有巧賞牌の獲得を期に復興を果たし[3]、1880年(明治13年)の滋賀県物産誌によると、水口村の藤細工の製造家は108軒、製造数は99,500個、売上高3528円40銭と江戸時代よりも生産量を大きく伸ばした[2]。1892年(明治25年)に海外輸出のため、西村藤七らが地元業者を組織化して盛進合資会社を設立し、アメリカなどへ海外輸出する等、順調に生産量を伸ばした[2]。明治時代末から大正時代にはは従来の藤細工(ふじざいく)だけでなく、新たに経木細工(きょうぎざいく)や檜細工(ひのきざいく)なども作り[2]、これを主力として最盛期を迎える。
太平洋戦争後も海外輸出を続けていたが、昭和40年代になるとビニール・プラスチック製品の普及により需要が伸び悩む中、職人が安定収入を求めて機械や電気の部品工場に転職したため[4]、クズ・フジを素材とした細工技術が途絶えてしまった。