水沢薫
From Wikipedia, the free encyclopedia
秋田商では3年夏に秋田県大会決勝で秋田経大付属に敗れるなど、全国大会への出場はなかった[1]。素質を評価され[1]、高校卒業後は社会人野球の河合楽器に進んでいる。1986年は都市対抗野球1回戦で完投勝利すると続くNTT北陸戦も先発したが補強の杉山孝一に2本塁打を浴びて敗れた。日本選手権では1回戦の対日本生命戦で田島俊雄に投げ勝つなど、ベスト8進出に貢献した。同年のドラフト会議で読売ジャイアンツ、阪神タイガース、ロッテオリオンズの3球団から2位で指名を受け、巨人が交渉権を獲得。担当スカウトは中村和久で、契約金と年俸それぞれ5500万円、600万円(いずれも推定)、背番号は19で入団が決まった[2]。
1年目の1987年にはイースタン・リーグで8セーブポイントを挙げ、西本和人とともにファームの最優秀救援投手のタイトルを獲得した[3]。しかしその後は故障などが続き、一軍での登板がないまま1992年に現役を引退。日体大での研修期間を経て、1995年から2002年と2004年および2006年は二軍、2003年と2005年は一軍でトレーニングコーチを務めた[4]。2008年からは球団運営部一軍監督付となり、原辰徳監督のサポートに従事し、原も水沢を信頼した[5]。
2013年に体調不良のため現場から退き[6]、2014年1月10日、肝不全のため48歳で死去した[6]。戒名は、永照院薫峰天球居士[7]。告別式では原が弔辞を読んだ。
家族は妻と2女。