水若酢神社古墳群
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2号墳:円墳
| 水若酢神社古墳群 | |
|---|---|
|
水若酢神社1号墳 石室 | |
| 別名 | 姿ダワ古墳 |
| 所在地 | 島根県隠岐郡隠岐の島町郡 |
| 位置 | 北緯36度16分48秒 東経133度14分58秒 / 北緯36.28000度 東経133.24944度座標: 北緯36度16分48秒 東経133度14分58秒 / 北緯36.28000度 東経133.24944度 |
| 形状 |
1号墳:墳丘なし 2号墳:円墳 |
| 規模 | 1号墳の石室全長9メートル余(隠岐で最長) |
| 埋葬施設 | 横穴式石室 |
| 出土品 | ガラス丸玉、大刀、鍬先、土器 |
| 築造時期 | 6世紀後半 |
| 埋蔵文化財 包蔵地番号 | g1(g1-1、g1-2)[1] |
| 地図 | |
遺構
1号墳
水若酢神社の本殿東側に所在する[3]。墳丘は現存せず、野津左馬之助はその伝説と石室の構造から前方後円墳と推定しているが[2]、確証はなく墳形不明[4][5]。墳丘規模は石室の長さから径20メートル以上と推測されている[4]。野津の報文によれば、羨道の長さ6.06メートル×高さ1.37メートル、玄室の長さ4.55メートル×幅2.82メートル×高さ1.6メートルの横穴式石室を有する[2]。その後、石室内には土が充満し、発掘なしには詳細な調査が不可能となっているが[6]、山本清は羨道部のうち玄室の手前の約2.5メートルの部分について、底面の構造が玄室と同様であること、羨道部に接する部分の幅が一段狭く造られていることから、この部分を前室とする複室構造の石室であることを確認している[4]。
玄室内には2基の凝灰岩製の刳抜式石棺が存在する[4]。小石棺は凝灰岩製で石室の軸と直角に配置されており[6]、規模は外部長2.12×幅0.7(頭部)/0.55(尾部)×高さ0.4、内部長1.88×幅0.49(頭部)/0.35(尾部)×高さ0.18である[7]。大石棺は外部長2.43×高さ0.55、内部高さ0.34で発掘の際に破損したためその他の寸法は不明である[7]。石棺の蓋石も2点あり、1つは長さ1.37×幅1.52×厚さ0.61、もう1つは長さ2.58×幅1.52×厚さ0.76である[7]。
2号墳
水若酢神社の本殿背後に所在する[8]。現状で径20メートル×高さ2.5メートルの円墳であるが[9]、墳丘の一部は水若酢神社本殿を建てるために切り取られたという[8]。
遺物
1号墳から出土した遺物には鍬先一括、鉄刀一括、鉄鏃一括、ガラス丸玉1、高杯片1、𤭯片2、高杯1、𤭯片一括があり、東京国立博物館に所蔵されている[10]。鍬先は古墳時代後期に多く用いられたU字形のもので[11]、一括されている中に長さ約25センチメートル×幅約20センチメートルの大形のものが含まれる[6]。鉄刀残片は3片あり、3個体に復元されると思われる[11]。この3片とは別に、鉄刀残片として一括されている資料の中にヤリガンナの可能性がある鉄製利器の残片が含まれる[6]。鉄鏃のうち1点が長さ7.2センチメートル×茎の幅1センチメートルのほぼ完全な形で残っている[11]。ガラス丸玉は直径1.2センチメートルで0.2-0.4センチメートルの孔があり、碧玉製とみられる濃紺色のものである[11]。
歴史
『続日本後紀』に記載のある承和9年(842年)以前に水若酢神社が創建されたが、水若酢神社は元は山田川流域に位置しており、『隠州記』によると延宝6年(1678年)に現社地に遷座しているので[14]、古墳群とは当初から関連するものではない[15]。
1920年、水若酢神社の社域拡張工事中に偶然発見されたが、同工事によって墳丘が失われた[2][10][16]。1925年の『島根県史 四』でこの古墳群が初めて文献に記述され(この時点では1号墳のみ)[17]、戦後には1949年から1952年にわたる山本清による隠岐古墳調査[18]、1954年から1957年にわたる関西大学、島根大学による隠岐総合学術調査(水若酢神社古墳群の調査は1954年8月13日)[19][20]などの調査が実施された。
