弘化3年(1848年)、商人であり勤王家の水谷民彦の長男として生まれた。
弓腹は幼少より家職を見習っていたが、元治元年に「憂国のことあり云々」と書き置きして無断で家を出奔し、父・民彦は怒ってしばらく勘当したと伝わる。のちに芸州へ出張して藩主から労を賞され、拝領品を受けた。
慶応2年、藩より国産運搬係を命じられ江戸尾張屋敷(蠣殻町)に勤めていたが、慶応3年正月の薩摩邸騒動に接して帰国を決意し、父の斡旋により信州飯山陣屋に詰めることとなった。同年4月、越後方面から幕府脱走兵が侵攻した際には、自ら率いる旁薄隊をもって迎撃し、25日の戦闘でこれを壊滅させたとされる。
明治維新後は官途につき、明治3年に刑部少録、明治5年3月に司法省十等出仕、明治10年に司法省二等属となった。
明治15年1月に37歳で死去。同じく愛知県出身の間島冬道とは親交があり、冬道が弓腹の死を悼んだ詠んだ歌が数首残されている。