水野弘毅

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水野弘毅(みずの こうき)

水野弘毅(みずの こうき、明治8年〈1875年〉10月 - 明治43年〈1910年〉12月9日)は、明治期の岡山県御津郡上田村、明治37年合併後円城村における地方指導者である[1]

弘毅は若年期には閑谷黌で学んだとされる。のちに明治法律学校(現・明治大学)へ進学したが卒業には至らず帰郷し有力旧家・水野家の養子となった[1]。そして地域の教育環境の整備や社会事業、加茂貯蓄銀行、行政にも関わった。

享年36[1]。村葬。京都帝大教授内藤湖南(畠山運成書)の墓碑銘、岡山県衆議院議員竹内正志の墓碑銘が現存。

教育・社会事業

弘毅は、地域の産業の発展、教育の振興に強い関心を持ち、その実現に積極的に取り組んだ人物として記録されている。その活動は加茂郷・円城地域にとどまらず、県域を越えた福祉事業にも及んだ。

地域の若者への学資援助

同郷の後輩である楢崎浅太郎(のちの東京高等師範教授)らに学資援助を行ったことが、現存する一次資料から確認できる。

旧制金川中学校の学寮支援(岡山県立金川高等学校

金川中学校創立後、遠隔地域の子弟が進学できるよう、学校側と協議のうえ付属寄宿舎の建設に関わり、遠隔地の生徒を収容する体制を整えた。なお、『御津郡史』(大正12年刊)では寄宿舎について「今なし」と記されており、同時期には廃止されていたことが確認できる[1]

岡山菩薩孤児院の顧問を務める

院児収容所の建築にも関わるなど、県域を越えた社会福祉事業にも尽力した[1]岡山孤児院石井十次)と岡山菩薩孤児院との関係は今後の調査が待たれる。

これらの活動は、殖産・教育・交通など多方面にわたり、弘毅が地域社会のために尽瘁し、日もなお足らぬほど奔走した人物であったことを示している。

経済活動

行政

脚注

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