水野監物邸跡
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現在の慶應仲通りが三田二丁目から田町側に向かい、商店街の終点で東南に折れる場所の正面の医院の前に位置する。
ただし、元禄16年(1703年)11月に切腹跡を含めた藩邸は火事で焼失したうえ[3]、水野氏は天保14年(1843年)閏9月、江戸市民や浪人たちに邸を襲撃されたため[4]屋敷の移動があり、浪士切腹当時の屋敷は同地より北へ50メートルほど離れた場所にあった。
水野忠之は浪士を丁重に遇したと伝わる[5]。火災、水野騒動の処罰と転封、百姓一揆などによる混乱や藩主押し込め、暴徒の藩邸襲撃などで往時の遺構(畳二枚、供養塔など)は散逸してしまい[6]、現在は屋敷移転後に置かれた石灯篭[7]、二か国語の案内板、由来不明の丸石と木製ベンチが残る。

