永井蠖伸斎は、武蔵国忍藩松平家家臣・新三右衛門の四男として生まれ、本名を新六蔵という。兄に剣客として知られる小嶋楓処がいる。万延元年(1860年)に出府し、幕臣久野家を経て鈴木家の養子となり、鈴木蠖之進と称した。
文久2年(1862年)、外国奉行であった永井尚志の配下となり、尚志が京都町奉行として上洛した際に随従した。このころ、新選組・見廻組などと協力して京都市中の警備にあたった。
文久4年(改元後元治元年、1864年)、永井尚志が大目付として引き続き京都政局の収拾にあたったが、長州征討後に幕議と対立して江戸に戻ると、蠖之進もこれに従って帰郷した。その後、今井信郎とともに上野国岩鼻陣屋に剣術師範として迎えられ、慶応2年(1866年)には武州大一揆などの対応に出張している。
慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦い後、古屋作左衛門が脱走幕府軍を糾合して再起を図ると、今井信郎とともにこれに同調し、信州鎮撫隊(のち衝鋒隊)の幹部となった。この際、永井尚志から養子格として姓を与えられ、永井蠖伸斎と号した。
衝鋒隊は勝海舟より砲六門・兵八百五十を認められ、天領である信州中野を目指して進軍したが、途中で忍藩への同調要請に失敗し、蠖伸斎は実兄と生別する結果となった。梁田で西軍の奇襲を受けて北進し、会津若松入城を試みるも、会津藩の恭順方針により拒否され、越後国へ転進した。
越後では去就未定の諸藩を制圧しつつ進軍したが、飯山藩・高田藩の背盟と西軍東山道軍の攻撃を受けて退却した。長岡藩では、家老河井継之助と協同して激戦を展開し、河井の奇策による長岡城奪回などで衝鋒隊も活躍したが、最終的に再落城となった。
その後、隊は山中を越えて再び会津へ向かい、さらに榎本武揚の艦隊に合流して蝦夷地へ渡航し、周辺地域の制圧および蝦夷共和国の樹立に参加した。
明治2年(1869年)4月29日、五稜郭外の矢不来において戦闘中に銃弾を受け、敗走する味方を救援せんとして奮戦したのち、最期を悟って自刃し戦死した。享年30。墓所は北海道亀田郡大野町の光明寺に所在する。遺品は田中正彝が持ち帰ったと伝えられる。小島慶三は又甥(兄の孫)にあたる。