永島旭
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東京都中野区出身。東京大学法学部卒業後、日本銀行に入行。外国局総務課長、国際局長等、国際畑を主に歩んだ[1]。
1993年(平成5年)には同行筆頭理事に就任。その後、内定していた副総裁への昇任を取り消された。これは、1998年(平成10年)に発覚した「日銀接待汚職事件」で内部に逮捕者が出たための人心一新が狙いとされたが、実際には夫人が「真珠のネックレスの糸換え」をめぐって、都内の真珠販売店と金銭トラブルを起こし、それが民事訴訟まで発展。さらに詐欺と恐喝で書類送検に及んだことが週刊誌等で大々的に報道されたため、プライベートのことながらスキャンダルを嫌う日銀の体質上、重大視されて副総裁昇任の取り消しへ繋がったとされる[2]。その後永島は、日銀を辞し東京海上に顧問として転じた。
一方、当時中国銀行では、12年弱の任期を務めた会長兼頭取の稲葉侃爾か会長専任となり、プロパーである山本吉章が頭取に昇格したばかりであったが、2000年(平成12年)に入って山本が病に倒れ、3月には稲葉が再び頭取を兼務する形で復帰していた[3]。 稲葉としては、早々に後任の目処をつけたいと考えていた所、1983年(昭和58年)から2年間にわたり日銀岡山支店長を務めていた永島が目に留まった。金融業務に精通した上、岡山に人縁があり地元経済界よりも受け入れられると考えた。天下りではなく、あくまでも人物本位による選考とのことで2000年(平成12年)6月、同行としては54年ぶりの外部出身者として頭取に就任した[1]。
トップ在任時においては、証券子会社の設立や経営改革に取り組むも、メイン先企業である林原(現・ナガセヴィータ)の経営破綻に伴う業績悪化のため、2011年(平成23年)に退任した[4][5]。
毎日放送などの在阪ラジオ局向けCMには永島自らが出演していた。
略歴
脚注
- 1 2 『日本金融通信縮刷版 37版 2000年』 日本金融通信社、2001年
- ↑ 『週刊ポスト』 1998年1月16日号、『週刊文春』 1998年3月12日号、4月2日号
- ↑ 日本経済新聞 2000年8月24日
- ↑ “中国銀の永島頭取、退任へ 融資先破綻で引責”. 共同通信. (2011年3月29日). https://web.archive.org/web/20110402234014/http://www.47news.jp/CN/201103/CN2011032901000801.html 2013年9月20日閲覧。
{{cite news}}: CS1メンテナンス: 先頭の0を省略したymd形式の日付 (カテゴリ) - ↑ “林原問題で中国銀けじめの一新 代表権者総退陣”. 日本経済新聞. (2011年3月30日). https://www.nikkei.com/article/DGXNASJB2904H_Z20C11A3LC0000/ 2014年11月20日閲覧。
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