永珹

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愛新覚羅 永珹(あいしんかくら えいせい、乾隆4年1月14日1739年2月21日) - 乾隆42年2月28日1777年4月5日))は、乾隆帝の第四皇子。母は淑嘉皇貴妃金佳氏

永珹は乾隆4年1月14日(1739年2月21日)に乾隆帝の第四皇子として円明園の碧桐書院で生まれた。生母は嘉嬪金氏であった。

乾隆4年(1739年)11月、廣儲司総管六庫の事務郎中である邁格らが、永珹の乳母を雇う費用として、規定に従い銀79両を支給する旨の文書を発行している。

乾隆28年(1763年)11月、永珹は大叔父にあたる康熙帝第12皇子履懿親王胤祹の養孫として出継(別の家系に養子として迎えられること)し、履郡王の爵位を授けられた。

乾隆33年(1768年)3月2日、永珹は御書処および武英殿の事務を管理するよう命じられた。

乾隆35年(1770年)1月8日、雍和宮の事務を管理するよう命じられた。同年、永珹は神を祀ることを口実に一日中書房に姿を見せず、師傅(教育係)である翰林院侍読学士の汪永錫らは俸給を減らされる罰を受けたが、尹継善らは減俸を免除された。

乾隆42年(1777年)2月18日、永珹は病気療養のため円明園へ行くことを命じられたが、同年2月28日に薨去した。享年39歳であった。諡号は「端」とされた。乾隆帝は、第八皇子・永璇に喪に服させ、永珹の叔父の金簡とともに葬儀を執り行うよう命じ、すべての儀式を親王の格式に従って特別に行うよう指示した。

嘉慶4年(1799年)3月、永珹の異母弟嘉慶帝は「永珹(四阿哥)はかつて上書房において、誠実で友情に厚く、学問や才芸にも優れていた。もし若くして亡くならなければ、乾隆帝はすでに親王に封じていたであろう」との詔を下し、彼に追贈として親王の位を授けた。

家庭

登場作品

参考文献

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