永野一男

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ながの かずお
永野 一男
生誕 永野 一男
1952年8月1日
日本の旗 日本 岐阜県恵那市
死没 (1985-06-18) 1985年6月18日(32歳没)
日本の旗 日本 大阪府大阪市北区天神橋
死因 刺殺豊田商事会長刺殺事件
団体 豊田商事
肩書き 豊田商事創業者、会長
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永野 一男(ながの かずお、1952年昭和27年〉8月1日[1] - 1985年〈昭和60年〉6月18日[1])は、日本実業家詐欺師

現物まがい商法を用いた悪徳商法によって被害者数は数万人、被害総額は2,000億円となった巨大詐欺事件を起こした豊田商事創業者である。大勢の報道陣に囲まれた自宅マンションで殺害された。

豊田商事設立

岐阜県恵那市に一人息子として生まれた[1]。生家はが二程で貧しかったが、祖父がやり手で百姓仕事の傍ら、県の砂防工事の現場監督をやって現金収入を得ていた[2]。しかし、父は幼時期に脳膜炎を患った影響で仕事が出来なかった[2]。母は看護婦の経験があり、嫁ぐ際に「子供を産んではならない」と父の親戚から含まされたという。母もこれに納得していたが、結婚2年目に永野を出産した[2]。永野は幼少期から特に目立っていたわけではなく、ごく普通の子供だったという[3]

15歳の時に、島根県浜田市国分町の叔父宅に預けられ、母は名古屋市の病院で下働き生活に入って以来、親子が一つ屋根の下に住む事はなかった[4]

中学校卒業後、日本電装(現:デンソー刈谷工場に集団就職し、同時期に刈谷高校定時制高校に通っていたが、工場は2年で退職し、高校も退学した[5]。その後、消火器セールスマンなどを経て別荘分譲会社である「名藤富士開発」に入社した[5]。同社を退社後、一攫千金を夢見て、消費者金融等から多額の借金をした上で競輪に凝る[5]。しかし賭博で稼げる訳もなく、20歳の若さで2~3百万の借金を重ね、身動きが取れなくなった。ついには大垣競輪場スリを働き逮捕され、懲役1年、執行猶予3年の宣告をされる程生活は荒んだ[6]。この後、商品取引業者である「岡地」の岐阜営業所でコミッションセールスとして採用された[6]。同社には1973年9月から1975年11月までの約2年間在籍した。永野は目立たないセールスマンで、ある時会社(岡地)の社印と白紙の預り証を金庫から盗み出し、それを用いて客から金を集め、手張りをやった挙句大穴を開けた事が発覚し、懲戒解雇された[7]

その後も永野は社会に出ては人の金を頼りに儲けを企み、カネの修羅場の底辺を這いずり回ったという。別荘地分譲、競輪、商品相場、のちに金の先物取引を行う「竹勇」等、彼は多少なりとも如何わしい金作りの世界に浸かっており、その面のノウハウも、人脈作りも身につけていった[8]

1978年7月8日営業目的貴金属販売有価証券の保有利用等と定め、資本金5千万円で東京銀座に「豊田商事」を設立[9]。永野が「豊田」を会社名に入れた理由は、中学校卒業後最初に就職した企業がトヨタグループの自動車部品メーカーである日本電装(現:デンソー)であった事と、有名なトヨタグループの関連会社であると錯誤させる為であった。1984年4月には、資本金5千万円で「銀河計画」を設立し、同社を傘下企業の司令塔とすると共に持株会社と位置づけ、その下に豊田商事などのグループ企業群を置いた[10]。また、大阪駅前第4ビル19階全フロア約2500㎡に祈祷所の設置を計画[11]。その為に天下一家の会内村健一に会う事もした。内村はネズミ講の資産を宗教法人大観宮に寄贈し、税務署攻勢から守り通した先達であった[11]。成算ありと踏んだ永野は1983年秋から、5億とも20億とも言われる金をかけてフロアに洞窟神殿仁王像、地獄絵を配して、宗教施設とした[11]。しかし、最終的には幸か不幸か認証がおりずに撤去されている[11]

豊田商事の現物まがい商法で数千億円もの金を集める事に成功し、自らセスナ機を操縦し、カウンタックフェラーリ等といったハデな外車を4~5台ずつ所有し、取っ替え引っ替え乗り回していたが、永野は浪費家に見えて、自身は慎ましいと考えていた節がある[12]1984年の春、投資ジャーナル中江滋樹に会った後に「あいつはバカだ」と吐き捨てる様に言った。タレントの倉田まり子との浮名等を承知し、社会の目を憚らねばならない悪党の倫理に欠けると感じたのだろう[13]。セスナもクルーザーも、永野の思惑では事業に必要なのであって贅沢ではなかった。事実、「豊田航空」等社有物件としていた[14]

刺殺

1985年6月18日午後4時30分過ぎ、大阪市北区天神橋の自室マンションの玄関前に「今日逮捕」との情報を聞きつけて多くの報道陣が集まる中、被害者の元上司に当たる自称右翼の男2人が窓ガラスを破って侵入し、永野は旧軍の銃剣で額を切られ、全身の13ヵ所を刺された[15]。銃剣を防ごうとして両手5ヵ所を負傷し、自分の体から流れ出た血の海に倒れた[15]。しかしそれだけではなく、犯人の男2人は虫の息となった永野を侵入口の寝室まで引きずり、血まみれの永野の体をカメラの前に晒した[16]。永野は直ちに病院へ運ばれたが、午後5時15分、出血多量の為死亡が確認された。32歳没。殺害された際の室内に残されていた所持金はわずか711円であった[17]

死の間際まで永野と愛人関係を続けていたM・Y子はこう語っている[18]。「あの人のマンションに行ったとき、なんて殺風景な部屋なのかと驚いた。ダブルベット、机、本棚、冷蔵庫、ステレオ…、3LDKの部屋に目につくものといったら、これくらい。必要最小限なものしか置いてないんですよ。一人でいる時は何をしてるの?と聞いたら、レコード聞くぐらいかな、って。そのレコードも加山雄三とか、寺尾聰グループサウンズにいたころのものばかり」[19]。M・Y子は1983年4月から永野と交際していた[12]。彼女には永野から3DKのマンションが与えられ、月の手当は百万円ほどであった。彼女の知る限り、永野の愛人は東京、仙台、福岡、沖縄にも4人居たという[12]

豊田商事の元幹部によれば、永野は新宿区四谷の高級マンションを含む10のマンションを持ち、1~2日に1度は「殺される事を恐れて、寝場所を替えて泊まり歩いていた」という[12]。事件後、永野の愛車であったランボルギーニ・カウンタック差押され、管財人となった中坊公平らによって売却される事となったが、スーパーカーブームが過ぎ去っていた為にあまり高く売れなかった。永野を殺害した犯人である男2人には、それぞれ懲役10年と8年の実刑が確定している[20]

関連項目

脚注

参考文献

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