江南哲夫
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文久元年(1861年)に会津藩の南学館友善社に入り漢学を修めると、大学試験に及第し藩校日新館に入る。会津戦争では、数え15歳で白虎隊士(寄合組一番隊)として越後口の防衛戦に出動[2]、戦後は越後高田に謹慎となる。その間、南摩羽峯に学び、明治3年(1870年)に赦されて上京、増上寺徳水院の藩塾に入る。のち淀藩主稲葉正邦公の給費生として同藩校に入り、転じて同年大阪開成所に入り英学を修める。次いで、鹿児島兵学校、東奥義塾、共慣義塾等を転々とした。[3]
1874年(明治7年)に慶應義塾に入学。卒業後の1877年(明治10年)郵便汽船三菱会社に入り[4]、書記として社長の岩崎弥太郎に随行し神戸・長崎支店に出張、1878年(明治11年)に上海支店勤務。岩崎弥之助の側近として興亜会などに関係した[要出典]。1881年(明治14年)農業を志して辞職し、北海道に移住。1884年(明治17年)第二十国立銀行に入り、函館支店支配人を務める。1888年(明治21年)第一銀行に転任して朝鮮へ渡り(仁川支店支配人・京城出張所監理)、1891年(明治24年)辞職して帰国。1897年(明治30年)東京火災保険会社に入社(大阪支店支配人)。1900年(明治33年)南山合資会社を設立。これを売却し、1902年(明治35年)に京釜鉄道に入社し、京城支店長となり重役を代理。1904年(明治37年)9月の速成令のため休職幹事となり、1905年(明治38年)8月免職となる。1906年(明治39年)4月、日露戦争の功により勲六等瑞宝章を受章[5]。[3]