岡山支藩に属した三宅正近(健二郎)の第二子として生まれ、のち狭山藩士・池田安勉の養子となった。若くして蘭学を松代藩の有田某に、西洋兵術を園部藩の大島某に学び、蘭学・洋式軍学の双方に深い造詣を得たという。
その知識と交流は広く、広沢兵助(真臣)・坂本龍馬らとも親交があったとされる。狭山藩が全国に先駆けて版籍奉還を願い出た背景には、安正の存在が大きかったと記録されている。
幕末には京都警備にあたり、鳥羽・伏見の戦いでも京都防護に従事した。維新後は新政府の陸軍に出仕し、陸軍中佐となった。しかし明治9年ごろ脚気を患い官を辞し、河内国・狭山の東方錦部村へ退転したのち、京都・東山へ移り住んだ。明治12年5月22日に死去。享年47。
家族として、娘の正子は大島貞益に嫁いだことが知られる。