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決疑論

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決疑論(けつぎろん、英語: casuistry[1])とは、法や倫理の規範を現実化するにあたり、規範の原則を個別の状況へ適用すべく、(外部にすでに存在する)典型的な知られた事例をモデルとして掲げ、それに基づいて、何が正しく何が不正かを決定する方法論をさす[2]。ある事案において予見可能な個別の事例を検討する方法[3]。

宗教または道徳の規範を個々の具体的な行為や良心の問題に適用するさいに利用される方法論のことであり、一般には道徳法則は内的なものではなく外的なものであり、権威や論理に基づいて個々の場合を判断する方法のこと[4]。

概要

[5]決疑論(casuistry)の語源は「事例」を意味するラテン語の"casus"である。法や倫理規範は原理原則として外部にすでに提示されているものであるが、それを現実化するにあたっては、ほとんどの場合は原則だけでは十分ではなく、その原則を個別の眼前の状況に適用していく必要がある。決疑論は、個別事例を捌く司法に、個別的な解決を越えた法創造機能を期待する英米法と親和的な考え方であるという[6]。倫理の観点では、一般的な原則を典型的で具体的な倫理問題に適用することによって問題に対処しつつ、疑惑の事例については、過去の具体例の適用からの類推(analogy)によって問題に対処する。

もともとはローマ・カトリック教会の教父に告解の際の指針を与えるためのもので、司祭向けの指導法として中世に発達した。告解の儀式に際し、平信徒の罪の告白を聞く司祭のため、罪の種類と数、罰のリストを載せた指導書・手引書をあらかじめ作成しておき、個別の事例に対してこれに照らして類推に基づき判断を下す、という使用方法である。典型例は容易に判断を下せるものの、疑惑の事例についても過去の類似した事例との類推に基づき判断を下すという具合である。

決疑論は中世のスコラ学で重視され17世紀にピークを迎え、すぐれた手引書がイエズス会を中心に多く出された。一方で17世紀にパスカルによって厳しく批判されて以来、倫理学の分野において積極的に取り上げられることは少なくなった。批判の矛先はイエズス会士の説く「蓋然説(probabilism)」に対してであり、これは、ある行為が倫理的に許されるか不明瞭で「『自由』か『法』かという二者択一に関して、良心が疑いに直面した場合、自由の側の意見が真に蓋然性をもつならば、たとえ法の側の意見が明瞭に、より蓋然的であっても、前者に従うことが正当化される」という立場であった。イエズス会はこれを乱用して、一人の権威者の意見であっても、その者に権威さえあれば良しとして、自分たちに都合の良い権威者の意見を探しては自分たちの行為を正当化する傾向が見られたのである。

決疑論の立場は現実解決的である。「嘘は許されるか」[7]という問いについて決疑論は不変の法則を要求せず、それぞれの場面の事情を検討する。デューイは、決疑論の過去の評判の低さを前提にしながらも、カント倫理学を「(絶対の精神により実践的なところで)頑迷・硬直・融通のきかぬ気質」に陥っていると退け、一方で功利主義についても「幸福量の最大化という固定的な、究極的な、最高の目的という観念を一度も疑ったことがない点で、根本的な点において、まだ旧い思考法の影響を深く受けて」いると批判する。つねに同一の道徳原理をそのまま現実に適用する姿勢は「原理の暴虐(tyranny of principle)」であり、場の事情を考慮せず非妥協的に押し付けると「暴虐」となりえるのである。

1960年代から医療や科学の分野で倫理的課題が問われることが増え、決疑論が再び注目されるようになった。実践的で喫緊の現在の問題(核兵器、遺伝子技術、地球温暖化など、あるいは輸血拒否、安楽死、臓器移植、クローン技術など)に指針を与える応用哲学が要請されたのである。

アルバート・ジョンセンとスティーヴン・トゥールミンの著書「The Abuse[8] of Casuistry」(1988年)刊行以降、再評価されている。両氏によれば倫理学は原理(原理の適用=application)から出発するのではなく、事例から出発し、類似事例の比較参照を行うものでなければならず(倫理的分類学)、カズイストリ(決疑論)に対応する語は西洋中世においては「良心のケース」(casus conscientiae)であると言い、決疑論とは元来良心の問題であったとする[9]。

吉満と大城は「決疑論」は単なる倫理学における方法論だけではなく、社会が、倫理観の相反する相手に対して融和的・妥協的であれるかという態度の一面を持つと指摘する[10]。

決疑論者の論法

ブレーズ・パスカルはプロヴァンシアル5章から9章にかけて多くの事例を挙げており、以下はその例である。

  • 「殺人者は教会から追放されなければならない」[11]しかし「殺人者とは計画的に人を殺すため金銭を受け取って実行した者であり、無報酬で友人との義務を果たすためだけに殺人を犯した者は殺人者とは呼ばれない。」(5章)
  • 「余剰から施しを与えなさい」[12]しかし「自分自身や親族の生活を向上させるために蓄えているものは余剰ではない、王族であっても余剰がなければ施しは義務ではない」[13](5章)
  • 「悪をもって悪に報いてはならない[14]」「復讐を求める者は、神の報復を自ら招き、その罪は忘れられない[15]」しかし「不名誉を避けようとする意図なら剣の一撃をもってでも侮辱を即座に撃退しようとするかもしれない。すなわち剣で撃つことさえも[16]」「敵があなたに危害を加えようとする場合、憎しみから彼の死を願うべきではないが、自分自身への危害を避けるためにそうすることは十分にあり得る。なぜなら、この意図によるこのことは非常に正当であり、偉大なメンドーサ・ウルタドは次のように述べている:他に避けられないのであれば、私たちを迫害しようとする者たちを速やかに死なせるよう神に祈ることができる[17]」[18](6章)

国際法

国際法はグロティウスの当初から決疑論法が採用されており[19]強制力なき説得にすぎない自然法と禁反言の法理、拘束力のある相互の国内法のほかには実効力ある根拠を持たない国際法領域において、交戦の事実に対して中立を保ち、戦争の目的や手段についてキリスト教の教義を支柱に、過去の数多の紛争とその和解に至るまでの事例を詳細に検討し、交戦者間の交渉を重視し、戦争は和平を目的とし、講和条約の信義を最も重視する理論が提唱された。20世紀にかけて順次確立されてきた国際人道法は、戦争という現実のなかでの犠牲者保護を定めたものであり、現実的かつ政治中立的な法である(侵略や自衛、当事者が紛争の発生を認める認めない、紛争の是や非を問わない)。また国際人道法は人道の原則と軍事的必要性の原則の均衡をとる役割を果たすものであり、たとえば文民が間接的な軍事活動について非協力であることを国内法により制裁された場合、国際人道法は中立的であり、国際人道法が関心をもつのは制裁が公平な裁判によるものでなかったり法によらない場合などである。「人道の原則」とは、例えば傷病兵を無限に保護すれば治療後に戦線に復帰するからという理由で傷病兵を殺害する、なる「軍事的必要性の原則」を抑制するものであり、国際人道法は人道的な見地のみに立脚して存在しているものではない[20]。

医学

[21]医療倫理の場面においては、治療方針や研究方針を現実に決定するという場面が存在し、いくつかの病院では倫理委員会が設置される。倫理の側面では、治療指針であれ研究指針の検討であれ、あるいは個々の事例の考察であれ、理由を挙げて自身の立場を正当化することが重要であり、相対的立場は退けられ、倫理的問題の解決において「正しい答え」に到達することが要求される。推奨される枠組みとしてロールズの「熟慮判断」と「反照的均衡」があり、これを基礎に①原則中心主義、すなわち医療倫理の4原則[22]を具体的な事例に適用する手法、②決疑論、すなわち事例の特徴を明らかにし、誰が見てもそれと認める、最も典型的な事例(模範的な実例、パラダイムケース)との比較を通じて答えを出す手法、③物語倫理、すなわちフィクションのケースを用いて、意思決定や倫理原則の妥当性を評価する手法がある。委員会の提供する倫理コンサルテーションの本質は「支援」であり、倫理的衝突に関係する人々全員が納得する合意に到達するのを支援することにあり、支援とは、ケース分析を行い、関係者間の価値の衝突を解消することを言う[23]。

決獄考

新井白石「決獄考」は次のような事件を記録する。正徳元年(1711)、現在の埼玉県川越市のあたりで男が絞殺され川に捨てられる事件があった。妻である女が人体確認し役人に訴え、調べが進んだところ、女の実父と実兄が下手人であると明らかになった。当時の歴史的な刑法のなかに養老律令の「闘訴律」があり、「告、祖父母、父母は絞(絞首刑)」とあり、儒教を重視した当時の立法では実父を告訴することは死刑に相当した。藩主の秋元喬知は判断しかね幕府に伺いを立て、幕府は林大学と新井白石に諮問した。林は闘訟律や春秋左氏伝、論語を引いて、父祖の重要性を示したうえで死罪にすべきと回答した。白石は父祖と夫のいずれをより尊重すべきかという基準に支那中国の喪の制度(礼記)とりわけ喪服の規定と喪中の長さを適示し、結婚前の父に対する娘の喪の制は本人の結婚後には低くなる一方で、結婚後の夫に対する喪の制は結婚前の父に対するものと同等になることから、結婚後には父に対する忠孝より夫に対する忠節が上回る、この女が告発後に自殺でもするなら夫に対しては義を守り、父に対しては孝悌をつくす者と称揚することはできるが、普通の者に備わる美質ではなく責めることはできない。林大学の論は不義を戒める趣意で書かれたものであって父と夫のいずれに従うかを論じるさいの根拠とすることはできない、と回答した。結局川越藩主秋元但馬守は下手人の2人は死罪とし、娘である女には尼寺行きを判決した[24]。

「casuistry」という語

casuistry(決疑論)という語が出現したのはパスカルによる「プロヴァンシアル(田舎人への手紙)」[25]における教会批判の後である。casuistryには「詭弁」「こじつけ」、Jesuit(イエズス会員)には「詭弁家」「策士」の含みがそれぞれ存在する。casuist(決疑論者)という語はパスカルが使用したものとされる[26]。

「決疑」という語

Casuistryはラテン語語源であり直訳すれば「事例論法」casuistは「事例論者」とでもすべきであるが、日本では意訳の「決疑論」が定着している。「決疑」という語は1881年(明治14年4月)発行の「哲学字彙」にCasuistryの訳語として採録されており[27]、当時この語は定着していたものと考えられる。1872年(明治5年)に出版された字引[28]によれば「決疑」とは「うたがいをけっす」「まよいをはらす」とある[29]。1862年(文久2年)「英和対訳袖珍辞書」にはcasuistに対して「心斈[30]者」の和訳を充てており[31]、陸九淵や王陽明、あるいは江戸中期の石田梅岩らが主唱した実践倫理と同等のものと比定されていたようである。吉満らは決疑論について「良心にとって疑惑のある具体的な事例に解決を与える論」が由来であると述べる[32]。

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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