沢田豊
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愛知県葉栗郡大野村(現・一宮市浅井町大野)で、医師の三男として生まれる[1]。1891年の濃尾地震により浅草の祖父の元に身を寄せる[1]。浅草で玉乗り曲芸の「横田一座」を見て、家出をして一座に加わり[2]、16歳だった1902年に[4][2](14歳だった1900年とする記述もある[5])、横田一座の一員としてロシア帝国統治下のウラジオストクに渡り[5][2]、さらにサンクトペテルブルクを含むロシア各地を巡業した[2]。1904年、日露戦争が勃発した際、一座はヤルタにいたが、そのまま抑留された[2]。その後、一座はコンスタンチノーブルからギリシャ、エジプトを経てイタリアに至り、以降ヨーロッパ各地で興行を行なった[2]。
横田一座は1907年に、ドイツの新興サーカス団サラザニと契約し、沢田は青竹の上に頭だけで倒立する技などによって評判を呼び、スターとなった[2]。また、ドイツ人女性アグネスと結婚し[2]、やがてふたりの間には6人の子どもたちが生まれた[3]。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、横田一座は敵国人として一時拘束され、一座は解散となってしまう[2]。沢田はしばらくの間、スイスのチューリッヒで電気技師として働いた[2]。
第一次世界大戦後、沢田はサラザニから呼び戻され、子どもたちとともに[2]「サワダファミリー」として曲芸を披露した[3]。1934年からはサラザニの南米巡業に参加し、その後の日本公演の企画も出ていたが、それは実現せず、興行主サラザニの急死を受けてサーカスがドイツに帰国した後、1936年に沢田はサラザニの息子から解雇されてしまう[2]。
その後、沢田一家は、キャバレーのショーなどで活動を続けたが、第二次世界大戦でドイツが敗北した後、ベルリンを占領したソビエト連邦軍によって、日本人であった沢田は家族とともに満洲の新京へ強制送還された[2]。その後、沢田一家は混乱した時期の中国におよそ3年ほどとどまり、1948年にドイツに戻った[2]。その後も沢田一家は曲芸の興行を1953年まで続けた[5]。