河越宗重 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 鎌倉時代後期生誕 文永8年(1271年)死没 元亨3年(1323年)[1]別名 河越出羽入道 凡例河越宗重時代 鎌倉時代後期生誕 文永8年(1271年)死没 元亨3年(1323年)[1]別名 河越出羽入道官位 出羽守幕府 鎌倉幕府氏族 河越氏父母 父:河越経重兄弟 宗重、貞重?子 貞重、治重、仲重テンプレートを表示 河越 宗重(かわごえ むねしげ)は、鎌倉時代後期の武将。鎌倉幕府御家人。父は河越経重。鎌倉幕府御家人。河越氏当主。河越出羽入道とも[1][2]。 北条氏得宗家当主・鎌倉幕府第8代執権・北条時宗より偏諱を受けて宗重と名乗る[注釈 1]。 元寇にあたり、弘安8年(1285年)ごろから豊後国香々地地頭として西国へ下る。元亨3年(1323年)、53歳で死去[1]。家督を継いだ貞重は系図上宗重の子とされるが、両者は1歳違いのため、親子ではなく兄弟と考えられる。 なお、宗重の子である治重(はるしげ)・仲重(なかしげ)らが鎌倉幕府滅亡後の建武年間に豊後国香賀地荘で現地の支配を行っていた記録が見られるが、これ以降の河越氏の動向は不明。 脚注 注釈 [脚注の使い方] ↑ 得宗家は本来ならば将軍の下で一御家人という立場にありながら、烏帽子親関係による一字付与を利用して、他の有力御家人を統制したことが指摘されており、地域棟梁格の有力御家人であった秩父氏[3]の嫡流である河越氏もその統制下にあった。その統制の主体である烏帽子親、すなわち有力御家人が一字を賜る相手が将軍から得宗家へ移行したという見解も示されており[4][5](詳細は北条氏#北条氏による一字付与についてを参照)、泰重が北条泰時、経重が北条経時、宗重が北条時宗、貞重が北条貞時、高重が北条高時から一字を拝領したと考えられる[6]。 出典 1 2 3 『常楽記』元亨三年六月十三日条。河越出羽入道他界五十三 ↑ 「千葉上総系図」(『続群書類従』第六輯下に所収)によれば宗重の註記に「出羽守」とある(紺戸 1979, pp. 18–19)。 ↑ 菱沼一憲『中世地域社会と将軍権力』汲古書院、2011年。 ↑ 角田朋彦「偏諱の話」『段かづら』三・四合併号、再興中世前期勉強会、2004年、21頁。 ↑ 山野 2012, p. 163. ↑ 紺戸 1979, p.15系図・p.18-19. 参考文献 落合義明『中世東国の「都市的な場」と武士』山川出版社、2005年。 山野龍太郎 著「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」、山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』思文閣出版、2012年。 紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」『中央史学』二、1979年。 表話編歴河越氏当主 能隆 - 重頼 - 重時 - 泰重 - 経重 - 宗重 - 貞重 - 高重 - 直重 Related Articles