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估価法

古代・中世日本における物品価格の評価・換算制度 From Wikipedia, the free encyclopedia

估価法(こかほう・沽価法)とは、古代から中世にかけて、朝廷の官司・国衙・鎌倉幕府が定めた、物品売買や代物貢納における公定価格および物品の換算率に関する法である[1]。ただし、東西市の估価については、市司があらかじめ価格を設定したものとする説のほか、実際の取引で成立した価格を集積し、後に価格交渉の基準として用いたものとする見解もある[2]。

概要

大宝律令には、都の東西両市における估価をはじめ、貿易や口分田などの公田から納める地子を代物で徴収する場合や、地子を中央へ送るために地子交易を行う場合の估価が規定されている。

『関市令』毎肆立標条では、市司が商品の種類ごとに品質を上・中・下の3等に分け、それぞれについて実際に取引された価格も上・中・下の3等に区分して記録することとされた。これを10日ごとに一簿としてまとめ、3か月ごとに所属する京職へ提出した[2]。後世の『延喜式』では、この帳簿は「沽価帳」と呼ばれ、毎月3通を作成して、太政官・京職・市司にそれぞれ1通を置く方式となった[3]。

估価の性格については、市司が商品の価格を設定した公定価格とみる説がある。一方、売買価格は売り手と買い手の交渉によって成立し、估価簿はそこで合意された価格を集積した業務報告書であったとする見解も示されている。この見解では、過去の取引価格が蓄積されるにつれて、估価簿が実際の価格交渉でも参照され、次第に事実上の拘束力を持つようになったとされる[2]。

東西市における価格交渉には、市司に所属する価長が関与した。天平7年(735年)11月20日付の左京職符では、舎人親王の葬送に用いる琉璃玉について、左京職が東市司に「平章其価」と命じており、市司が価格交渉にあたったことが確認できる[4]。また、天平宝字4年(760年)6月15日付の土師男成銭用文では、東市司の価長志貴得万呂と、西市司の価長とみられる小豆公万呂に物資購入の代金が渡されている。これは価長が買い手側の価格交渉を担当した実例と解されている[5]。

しかし、延暦17年(798年)の太政官符によれば、諸国が地元の特産物を朝廷へ納めるために買い上げを行う交易雑物については、和市の価、すなわち実際の市場価格で購入するよう命じられている。これは、估価と和市価格の乖離に加え、国衙の国司や在庁官人が不当に安い価格を估価として地元住民に押し付け、必要以上に物資を買い入れて余剰分から利益を得る不正が相次いだためとされる。

ただし、官設市場と市司を持たない諸国では估価そのものが実施されておらず、実際の買い上げでは都の估価を参考として朝廷が指示した価格が基準とされたとする説がある。地方では郡司を含む現地の有力者が市場を管理し、物資の買い上げや価格決定を実際に担っていたとも考えられている[6]。

その後、皇朝十二銭の廃絶などにより貨幣流通が衰退する一方、租税を物品で納めることや、中央へ上供する物資を交易によって購入することが一般化すると、交換価値の基準としての估価が求められるようになった。また、中央では都である平安京の物価安定と、輸入品の多くが平安京で消費された大宰府における対外貿易の統制が必要とされ、両者に連動した估価が行われた。

こうした事情から估価法はその後も継続され、延喜14年(914年)には、それまで全国一律であった地方国衙の估価である絹1疋=稲50束、綿1屯=稲5束について、各地の国例に合わせて変更することが認められた。天暦元年(947年)には、畿内と丹波国に対して、実情に応じた估価の引き下げが命じられている。

その後も応和2年(962年)・寛和2年(986年)・延久4年(1072年)・治承3年(1179年)に估価法による価格統制が行われた。特に治承3年の估価法は、平氏政権の主要な財源となっていた宋銭の使用禁止が後白河法皇の意向によって提議されたことと関係し、同年の平清盛による治承三年の政変の原因の一つになったとされている。

鎌倉時代にも、建久6年(1195年)、建長元年(1249年)・同2年(1250年)・同5年(1253年)、弘安5年(1282年)、元徳2年(1330年)に估価法が定められた。鎌倉幕府も建長5年の估価法に呼応し、同年と翌年に価格の公定を行っている。

脚注

参考文献

関連項目

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