波多野保二
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新潟県の山本常吉の四男、山本保二として生まれ、後に衆議院議員の波多野傳三郎の養子となる。1906年(明治39年)、東京帝國大學法科大學を優秀な成績で卒業し、1908年(明治41年)に文官高等試驗に合格した。[2]
1909年(明治42年)1月16日に臺灣總督府税務官に任命され官僚としてのキャリアをスタートした。明治43年には拓殖局書記官となる。大正二年に拓殖局が廃止になり、逓信省に移る。
同年波多野は大正天皇より、「来年ベルギー・ブリュッセルで開催される「万国海法会議」に日本帝国代表委員に任命され、各国委員と協議し、条約を結び日本代表としてサインする全権を与える」と任命された。同行人には武者小路公共も同席した。[3]
1922年(大正11年)10月、ベルギーのブリュッセルで開催された第5回国際海法統一会議に、逓信省を代表する実務責任者(逓信書記官)として参列。武者小路公共(外交)、嘉山幹一(法理)と共に日本政府代表団を構成した[3]。
逓信省航空局次長であった1923年(大正12年)3月から12月にかけて、帝国議会において採択された「航空路開設と航空輸送補助に関する建議案」の実務を主導した。この建議案に基づき、東京〜大阪間をはじめとする国内初の定期航空路線の開設に向けた全体計画を策定。さらに、民間航空会社に対する補助金制度(補助法案)の整備に尽力し、日本の民間航空事業の黎明期における中心的役割を果たした。[4]
1924年(大正13年)、フランスの飛行家ペルティエ・ドアジー少佐による訪日飛行が行われた際、波多野は逓信省航空局長として主務官庁のトップに立ち、国内における航空路や着陸場の指定、気象・通信連絡の便宜供与など多大な支援を行った[5]。
さらに翌1925年(大正14年)、ドアジー少佐の訪日に対する答礼として朝日新聞社が計画した「訪欧飛行(初風・東風号)」が実
施され、フランス製の機体を使用した2機の飛行機がパリに到着した。波多野はこれらの日仏間における航空連絡事業を官僚の立場から強力に後押しし、事務的な支援を指揮した[6]。
これら一連の航空支援事業による日仏親善の功績がフランス政府より高く評価され、1925年12月31日付の大統領令に基づき、フランス共和国大統領より「レジオンドヌール・コマンドゥール勲章」を授与された[7]。

1925年(大正14年)、朝日新聞社が企画した「初風」「東風」の両機による東京―欧州間連絡飛行(訪欧飛行)の成功は、当時の日本において国家的快挙として国民的熱狂を巻き起こしていた。この熱狂を背景に、翌1926年2月3日、大阪・長堀橋の高島屋呉服店(代表者:江口七郎)から波多野に対し、同店楼上(屋上・催事場)での大規模な記念展覧会開催に向けた援助要請がなされた。
1927年(昭和2年)、東京逓信局長に就任し、東京地方海員審判所長を兼ねた。
昭和3年(1928年)3月の昭和天皇による大島・八丈島行幸に際し、波多野は東京逓信局長として、現地の通信インフラ維持と監督のために異例の措置を講じている。
当時の地方通信体制は、天皇の行幸に伴う膨大な「御用通信」や、新聞各社による報道電報の急増に対応しきれない懸念があった。定期船による往復では迅速な事態対処が困難であると判断した波多野は、海軍省軍務局長に対し、警備艦「春日」への便乗を強く要請した。
この要請に基づき、波多野(一等官)自らが、通信局書記官の安光元一や書記の林翼らを率いて両島へ急行。現場での通信監督業務にあたった。また、単に官側の通信確保にとどまらず、報道機関の社会的役割を重視し、当時最大級の部数を誇った『万朝報』の記者・前田渡(当時27歳)および写真師・小澤守郎(当時31歳)の軍艦便乗も同時に手配している。
一局の長という高官でありながら、通信パニックを防ぐために自ら軍艦で離島に乗り込み、官民双方の通信環境を整えたこの行動は、実務家としての波多野の責任感と、国家行事における通信の重要性を象徴するエピソードとして知られる。[8]
その後拓殖局書記官などを務め、逓信省に転じた。逓信省では、海員審判所理事官・審判官、遞信省臨時調査局事務官などを歴任。また、農商務省書記官を兼務するなど、幅広い分野で活躍した。[9]
