洞院季子
伏見天皇の妃。従三位・准三宮、女院。子に寛性法親王(1289-1346、第三皇子、仁和寺御室)。
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院号宣下と国母としての不遇
季子は永仁5年(1297年)に富仁親王(後の花園天皇)を生んだが、息子の即位後も長く院号宣下を受けられず、文保元年(1317年)に出家している。彼女が准三宮および「顕親門院」の院号を与えられたのは、天皇生誕から約30年が経過した正中3年(1326年)のことであった。
この特異な遅れの理由について、甥にあたる洞院公賢は、季子の十三回忌法要の日に記した日記『園太暦』において以下のように述べている。
彼顕親門院者山科入道左相府御息女也、京極・玄輝門・此女院三所、被奉生天子、希代之光華也、然而現世之間非国母之儀、以広義門院為准母、後伏見院御猶子之故云々、仍閑寂、頗顰眉之体也、而先公遺恨於此事、先朝正中比申沙汰、准后・院号如形及其沙汰了、予生前奉遇此御追賁、本懷満了、仍故障雖非一事、尽筋力営参者也、— 『園太暦』貞和4年2月13日条
公賢の記述によれば、季子の姉妹である玄輝門院・京極院を含め、洞院家から3人の天皇の生母が出たことは「希代の光華」であったにもかかわらず、季子は花園天皇の在位中「国母」としての礼遇を受けられなかった。これは、複雑な皇統の対立のなかで花園天皇が異母兄・後伏見天皇の猶子となったためである。その結果、後伏見院の女御である広義門院・西園寺寧子が天皇の准母として国母の地位を占め、実母である季子は不遇の身となり、公賢が当時の彼女の様子を「閑寂、頗る顰眉の体なり(冷遇されて寂寥とし、大いに眉をひそめて愁嘆していた)」と書き留めているように、寂寥と愁嘆の日々を送ることを余儀なくされたのである。
この事態に対し、公賢の父である洞院実泰は強い遺恨を抱き、洞院家として長年の働きかけを行った。その結果、後醍醐天皇の治世である正中3年(1326年)に至って、ようやく准后および院号の宣下が実現したのである。公賢は同じ記事の末尾で、生前にこの遅すぎる名誉を見届けられたことは一族の本懐であり、自身が病身であっても力を尽くして十三回忌の法要に参列するのだと、その深い感慨を記している。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 芳賀登 他 監修 『女性人名辞典』 日本図書センター、1998年、p. 423