洞院実雄

鎌倉時代前期から中期の公卿。洞院家の祖。西園寺公経の三男。従一位・左大臣、後宇多・伏見・花園天皇の外祖父 From Wikipedia, the free encyclopedia

洞院 実雄(とういん さねお、読みは「さねかつ」とも[注釈 1]旧字体: 洞院 實雄建保5年〈1217年〉- 文永10年8月16日1273年9月28日〉)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿太政大臣西園寺公経の子、母は権中納言平親宗の娘(七条院女房)。官位従一位左大臣山階左大臣(やましなのさだいじん)と号す。洞院家の祖。

時代 鎌倉時代前期 - 中期
生誕 建保5年(1217年
改名 実雄→法名:浄覚[1]/経学[2]/経覚[3]
概要 凡例洞院実雄, 時代 ...
 
洞院実雄
時代 鎌倉時代前期 - 中期
生誕 建保5年(1217年
死没 文永10年8月16日1273年9月28日
改名 実雄→法名:浄覚[1]/経学[2]/経覚[3]
別名 藤原実雄[4][5]、西園寺実雄[4]、山階実雄[6]、洞院山科左大臣実雄公[7]、洞院殿[8]、山階入道前左大臣[3]、山階左大臣[1][9][10][11]、山階左相府[12][13]、山階左府[14]、山階殿[15]、山階入道[16]、山科左府[1][17]、山科入道左大臣[18]、階相[19]、鷲入道前左大臣[3]、文応入道左府[20]、西園寺左大臣[21]、京極大臣[22]、正元右大臣[23]、山階大納言[24]、大炊御門大納言[25][26]、大宮権大納言[27]、大宮大納言[28]、大宮新大納言[29]、大宮中納言[30][31]、大理[32]
官位 従一位左大臣
主君 四条天皇後嵯峨天皇後深草天皇亀山天皇
氏族 西園寺家洞院家
父母 父:西園寺公経、母:七条院女房(平親宗の娘)
兄弟 西園寺掄子西園寺実氏一条実有実雄、道融、四辻実藤西園寺実材三条実親室、女子、西園寺成子、実意、実助、尊恵、実顕、行安、慈助、実勝、西園寺嘉子、西園寺公子
藤原栄子(公審の娘)、一条頼氏の娘、藤原臧子(四条隆房の娘)、後嵯峨院但馬局(大神能直の娘)、主殿司瑠璃の娘、白拍子無量
公宗小倉公雄、守恵、佶子愔子公守季子、禖子、慈順、公尹、公方、公風、定勝、実修、公潤、公春、近衛基平室、鷹司基忠室、三条公蔭室、三条公親室、実子
猶子:正親町三条公貫、一条公冬、一条公俊、藤原公世、円雄
特記
事項
後宇多天皇伏見天皇花園天皇の外祖父
花押 洞院実雄の花押
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実雄は後宇多・伏見・花園の3天皇の外祖父にあたる。実雄の女のうち、佶子亀山天皇に入内して世仁親王(後の後宇多天皇)を、愔子後深草天皇に入内して煕仁親王(後の伏見天皇)をそれぞれ生んだ。さらに、季子も伏見天皇に入内し、富仁親王(後の花園天皇)をはじめとする子女をもうけた。これにより、実雄は後宇多・伏見・花園の3天皇の外祖父にあたり、大覚寺統・持明院統の双方に国母を出し、実雄をはじめ歴代が大臣に任ぜられる家柄となった[33]

生前の実雄は、世仁・煕仁両親王の外祖父としての権勢が絶大であり、本家である西園寺家を凌駕するほどであった[34][35]。文永9年(1272年)の後嵯峨上皇崩御に際して、実雄が処分状に従い諸事を奉行した[11]。しかし、世仁親王の即位を目前に控えた文永10年(1273年)8月、病により出家し、同月16日に57歳で薨去した[11]。それゆえ、実雄は外戚として権勢を振るったものの、生前に外孫が天皇として即位する姿を見届けることは叶わなかった。

弁内侍日記』には貴公子としての優雅な振る舞いも記される[35]。宝治年間以降、後嵯峨院歌壇の主要な会に列し、自らも歌会を催すなどして歌壇的に活躍した[35]

日記に『山階左相府記』があり、逸文が伝存する。

経歴

生い立ちと幼少期

建保5年(1217年)、実雄は西園寺公経の三男として生まれた。母は平親宗の娘で、七条院に仕えた女房であった。公経の嫡男である実氏とは母を異にし、実氏の母・全子は、一条能保坊門姫の間に生まれた娘であった。坊門姫は源頼朝の同母妹、または同母姉ともされ、能保は頼朝の後援を受けて京都守護を務めた親幕派公卿であったため、実氏は母方を通じて鎌倉幕府と近い姻戚関係を有していた[36][37][注釈 2]

実雄の出生時、異母兄の実氏はすでに24歳で権中納言に任じられており、承久2年(1220年)には実氏の長男・公基が、貞応2年(1223年)には次男・公相が相次いで生まれた。このため実雄の幼少期には、実氏からその子息へと続く西園寺家嫡流の継承者がすでに存在していた。実雄は嫡流からは外れた立場にあり、のちにその系統は洞院家として、西園寺家と競合関係をもつことになる[43]

一方、父の公経は、実雄の出生後に起こった承久の乱を契機として、朝幕関係の中で地位を高めた[44]。公経は、養育していた外孫・三寅(のちの藤原頼経)の鎌倉下向を推進しており[45]、承久3年(1221年)には後鳥羽上皇方から幕府方に通じる恐れがあるとみなされ、実氏とともに弓場殿に幽閉された[36][43][46]。しかし公経はその直前、家司の三善長衡を鎌倉へ派遣し、京都の形勢を幕府に通報していた[36]。幕府方の勝利後、公経は同年閏10月に内大臣、貞応元年(1222年)8月に太政大臣へ進み、翌貞応2年(1223年)正月には従一位に叙された[36]。乱後の公経は、北条氏の信頼を背景に京での存在感を増し、後堀河四条天皇の時代の朝廷政治に関与するとともに、娘婿である九条道家を支える立場にもあった[44]。また、太政大臣を辞した後も、関東申次として公武間交渉に関わったとされる[45]

公経の娘・綸子を妻とする九条道家は、承久の乱によって摂政を罷免されたが、幕府の支持を受けた公経の後援などにより復権し、安貞2年(1228年)に関白となった[38][47]。この関白就任には、北白河院の意向や公経の支持が働き、また鎌倉幕府も道家の復帰を容認したとされる[48]。道家は、かつて仲恭天皇の摂政であったため幕府から警戒される立場にあったが、子の頼経が嘉禄2年(1226年)に鎌倉幕府の将軍に就任すると、将軍の父として幕府内でも無視できない存在となった[49]。道家は復権後、娘の竴子を後堀河天皇に入内させ、竴子は寛喜3年(1231年)に秀仁親王(のちの四条天皇)を産んだ[50]。秀仁親王は翌貞永元年(1232年)に践祚し、道家は天皇の外祖父となった[50][注釈 3]

この時期、公経は道家と協調しながら、摂関家内部の問題や後堀河朝の後宮にも関与した[50]。さらに、綸子所生の頼経が嘉禄2年(1226年)に征夷大将軍となると、父の九条道家も公経とともに関東申次を務めるようになったと推測されている[45]。西園寺家と九条家は、こうした将軍家との姻戚関係を背景として、承久の乱後の公武関係の中で重要な位置を占めた[36][38][45]。もっとも、関東申次の職掌には摂関やその家司も関与しており、公経のみが一元的に担ったわけではなかったとみられるが、公経も朝幕交渉の窓口の一人として活動した[53]

実雄は、このように西園寺家が幕府との結びつきと朝廷内での地位を強めていく時期に成長した[44]。承久の乱後の公家社会では、西園寺家の繁栄がとりわけ顕著であり、公経・実氏父子も急速に地位を高めた[54][注釈 4]。また、公経は北山の別業をはじめとする邸宅・庭園の造営や仏事・宴遊によって、同時代人の注目と批判を集めた[55][注釈 5]

その一方で、実雄の幼少期から少年期にあたる嘉禄・安貞・寛喜年間には、旱魃・洪水・異常寒冷・飢饉・疫病が相次ぎ、京都でも飢民・餓死者の増加、渇水、盗賊・強盗の横行、宮廷関係施設への侵入や文書・宝物の盗難などが記録された[60][注釈 6]。そのため、実雄の成長期は、西園寺家が承久の乱後の公武関係の中で権勢を拡大する時期であると同時に、都市京都の治安・経済・社会秩序が大きく動揺した時期でもあった。

こうした政治的・社会的環境のもとで、実雄も若年より官途に就いた。嘉禄3年(1227年)2月、11歳で従五位下叙爵され、同年3月には侍従に任じられた[65]。その後も、寛喜元年(1229年)に従五位上左近衛少将、寛喜3年(1231年)に正五位下、貞永2年(1233年)に従四位下へ進み[65]、若年ながら昇進を重ねた。

昇進の停滞と弁官兼任

天福2年(1234年)4月2日に行われた臨時除目では、実雄は昇進の対象から外れた。父の西園寺公経は、かねて実雄を内挙していたにもかかわらず昇進の沙汰がなかったことについて、「他人事ではない」として不満を示し、自らの子である実雄が除目で昇進を得られなかったことは、公経にとって看過しがたい問題であった[66][注釈 7]

こうした公経の不満を受け、従兄弟の尊性法親王が周旋に動いたことで、事態は収拾に向かった。同年12月21日(改元後の文暦元年)、実雄は近衛中将に進むのではなく、近衛少将のまま左中弁を兼任するという異例の措置を受けた[68]。この任官は、尊性らの意向を背景としつつも、中将への通常の昇進が実現しなかったために講じられた妥協的措置であったと推測されている[69]。実雄の任官は、鎌倉時代中後期において、清華家・羽林家の子弟として円滑に昇進できなかった庶子・庶流の者が弁官に任じられるという、新たな官途の先例として位置づけられている[70]

衛門督への就任

実雄は、嘉禎3年(1237年)3月7日に右衛門督に任じられ、検非違使別当を兼ねた。鎌倉時代に成立した官職書『官職秘抄』では、衛門督は中納言や参議が任じられる官職とされている[71]。鎌倉期の衛門督には、近衛家・一条家などの摂家や、久我家・西園寺家などの清華家の出身者が多く任じられており、権大納言へ昇進する過程における「足がかりの官」としての性格を有していた[72][注釈 8]。実雄も右衛門督任官の翌年には権中納言に昇進しており、この任官は、当時の高位公卿が上級官職へ進む過程に位置づけられるものであった。

頼経の拝賀への扈従

嘉禎4年(1238年)2月28日、将軍・藤原頼経が権中納言昇進に伴う拝賀を六波羅殿で行った際、実雄は西園寺公相とともに牛車に乗り、公卿として扈従した[75][注釈 9]。当時の実雄は数え20歳であり、幕府将軍の上洛に伴う公武儀式に公卿の一人として参加していたことが確認できる。

暦仁改元の議定

嘉禎4年(1238年)11月23日、天変地異が続いたことを受け、朝廷では改元の議定が行われた。実雄はこの議定に公卿として参列した。当日、文章博士らによって提出された勘文に対し、出席した公卿たちはそれぞれ支持する案を述べた。実雄は「延仁」と「暦仁」の二案を挙げている。

議定における各公卿の支持案は、同席していた一条実有の日記に以下の通り記録されている[77]

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暦仁改元定における出席者と支持案
人名支持案
平経高暦仁
洞院実雄延仁、暦仁
吉田為経延仁、仁宝
西園寺公相暦仁
花山院定雅延仁、貞久
葉室資頼延仁、康暦
久我通忠仁応、康暦
一条実有暦仁
堀川具実康暦、暦仁
二条良実暦仁
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その中から「延仁」と「暦仁」の二つが最終的な候補として議論の俎上に載せられた[78]。しかし、議論は難航した。

「暦仁」案に対しては、一部の公卿から強い難色が示された。その論拠は字画の解釈にあり、「暦」の字に含まれる「日」と、「仁」の字に含まれる「二」を合わせると「日二(二つの太陽)」と読めるため、「天に二日なし」の思想に抵触する不吉な文字であるという批判であった[79]

これに対し実雄は、自身の日記の中で、この問題について自らの見解を記している[80]。実雄は過去の吉例である元号「天仁」を引き合いに出し、「天仁」の「仁」の字を「二」と「人」に分ければ「天二人」となり、その難は「日二」の難よりもさらに重大であるはずだと指摘した。しかし、「天仁」はすでに吉例として用いられているため、これを准拠とすれば、「暦仁」を「日二」の難のみを理由として退けるには及ばないと考察した[81]。なお、実際の議定の場でも、良実が同様に「天仁は即ち天二である」と述べて反対論を退けており[82]、実雄の認識と軌を一にしている。

もう一つの候補であった「延仁」については、その訓読みが六条天皇の御諱と同音になるため、避諱の観点から退けるべきであるとの意見が大勢を占めた[83][84][注釈 10]

議定の場では結論が出ず、二条良実を通じて天皇への奏聞が行われた[85]。これに対し、禁中側から示された判断も慎重なものであった。奏聞を経て蔵人が公卿たちの元へ戻って伝えた内容は、「延仁」は諱に抵触するため使用を憚るべきであるが、「暦仁」の「二日の難」もまた懸念されるとし、「『天仁』が『天二』となる件については、『天は九天である』という思想に置けば複数化することの理屈・証拠は立つかもしれない。しかし、『日二』を正当化する確たる典拠は見当たらないのではないか」として、公卿たちに再考を命じるものであった[86]

これを受けた再議定において、両案の難点の軽重が比較検討された。その結果、「延仁」の「御諱の難」は重大な瑕疵であるが、「暦仁」の「二日の難」については文字をそのように解釈した典拠が不詳であり、こじつけに過ぎないとの見解で一致した[87]。さらに二条良実が、過去の「承暦」の例を挙げ、「暦」の字形に含まれる「日の重複」は既に先例として退けられていることを新たな吉例として提示し、これを添えて再度奏聞を行った[88]

結果として、最終的に「嘉禎を改めて、暦仁とする」との勅定が下り[89]、改元が正式に決定した。実雄はこの決定を見届けた後に退出している[90]

新元号「暦仁」の出典は、文章博士・藤原経範の勘文に引かれた『隋書』の「皇明馭暦、仁深海県」に求められる。改元の報は同年12月9日に鎌倉へ伝えられたが、暦仁2年(1239年)2月7日には再び改元が行われ、元号は「延応」となった。また、世俗では「略人有憚」と評されたという[91]。なお、「暦」の字をめぐる問題はこの時に限られず、後世の改元議定でも繰り返し議論の対象となった[注釈 11]。このように、暦仁改元時の論争は、後の改元においても先例として参照され続けた。

院評定衆の一員

実雄は、後嵯峨院政期に院評定の評定衆を務めた[94]。院評定は、伝奏が奉行する奏事と並び、院政における政務処理の二大ルートを形成したとされる[95]。寛元4年(1246年)、執権・北条時頼による朝政刷新の奏請が行われ、院中に評定衆を置く制度の導入は、この幕府側の要求に対応して採られた処置であったと推測されている[96][注釈 12]

評定衆の構成は、階層的に「上流廷臣」と「中流廷臣」の二群に分類される[97]。実雄はこのうち、有力公卿から成る上流廷臣の層に属した[97][注釈 13]。実雄は、こうした上流廷臣の一員として院評定に参画し、後嵯峨院政下の政務運営に関与した。

宝治改元の議定

寛元5年(1247年)2月28日、後深草天皇の即位に伴う改元の議定が行われた。『葉黄記』によれば、実雄はこの議定に参加し、「嘉元」と「正安」の二案を支持した。

議定では公卿らの意見が一致せず、最終的に「宝治」「嘉元」「寛正」の三案が奏聞された。その後、「宝治」とすべき旨の勅定が下り、寛元から宝治への改元が決定した[98]

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宝治改元定における出席者と支持案
人名 支持案
鷹司兼平 宝治、嘉元
九条忠家 宝治、嘉元
久我通忠 嘉元
花山院定雅 史料に記載なし
土御門顕定 宝治、正安
洞院実雄 嘉元、正安
平経高 嘉元
藤原信盛 寛正
勘解由小路経光 寛正
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新元号「宝治」の出典は、文章博士・藤原経範の勘文に引かれた『春秋繁露』の「治身者以積精為宝、治国者以積賢為道」に求められる。宝治3年(1249年)3月18日には再び改元が行われ、元号は「建長」となった[99]

内裏焼亡における神器奉護

建長元年(1249年)2月1日に発生した閑院内裏の焼亡に際して、権大納言であった実雄は車2両を献上し、後深草天皇と皇后・曦子内親王および三種の神器の避難を支援した[100]。この状況は『弁内侍日記』および『岡屋関白記』に詳しく記録されている。

『弁内侍日記』によれば、実雄の車は避難の際に一番早く参上したとされ、これに天皇・皇后のほか中納言典侍・宮内卿典侍らが乗車した[101]。この折、実雄が提供した車には天皇・皇后と剣璽、および2人の内侍(弁内侍・勾当内侍)が同乗していたが、一時、天皇の車に剣璽が載っていないとして騒ぎになる一幕があった[100]。当時、神器が持ち出されていないのではないかという疑念から宮中では大きな混乱が生じ、神器の所在を求めて馬を飛ばして捜索する騒動となったが、最終的に神器が実雄の車に奉安されていることが確認され、無事な退避が果たされた[102]

実雄は西園寺公基や西園寺公相らとともに、この騒乱の中で甲斐甲斐しく立ち働いたと記されている[101]。また、内裏焼亡を嘆く女房らに対し、過去の聖代にも同様の火災はあったとして再建を促す者たちがいる中、実雄自身も中枢の廷臣として事態の収拾に努めた[102]

また、この際には琵琶の銘器である「玄象」や「鈴鹿」といった累代の御物をはじめ、御椅子や時簡などの重要品も悉く運び出されている[103]

亀山天皇の乳父

建長元年(1249年)の皇子(後の亀山天皇)誕生に際し、権大納言であった実雄は御乳父に補任された[104]。当時の宮廷における「御乳父」は、本来の「乳母の夫」という語義から離れて一つの地位と化す傾向が強かった[104]。実雄の任官が「只名題許」、すなわち名目的なものとされたのは、本来「乳母の夫」を指すはずの御乳父が、妻室の乳母としての参上という実態を伴わない独立した地位となっていたためである[104][105]。このように御乳母の実体と切り離された結果、御乳父は准ミウチ的な立場で養君に奉仕し、扶持後見を行う「御乳父役」を担うこととなった[104]

閑院遷幸への参仕

建長3年(1251年)6月27日、後深草天皇が新たに造営された閑院内裏へ遷幸した際、実雄は権大納言として公卿の列に参仕した[106]。この閑院内裏は、宝治3年(1249年)の焼亡後、鎌倉幕府の援助を受けて再建されたものであった[注釈 14]

亀山殿の造営

後嵯峨上皇が亀山の麓に造営した亀山殿について、『古今著聞集』巻8は、造営が実雄の沙汰であったことを記すとともに、殿舎周辺の景観を詳述している。

造営の事は、権大納言実雄卿の沙汰とぞきこえし。水の心ばへ山の気色、めづらかにおもしろき所がら也。東は広隆寺ときはの森、西は前中書王のふるき跡、小倉山のふもと、わざと山水を湛へざれども、自然の勝地なり。南は大井河遥に流て、法輪寺の橋斜也。北は生身二伝の釈尊清凉寺にをはします。眺望よもにすぐれて、仏法流布の所也[注釈 15]

実雄による亀山殿の造進については、『古今著聞集』のほか、『歴代皇紀』・『法相記』建長7年(1255年)7月27日条、および『二禅記』同月28日条の記述からも裏付けられる[110]

『歴代皇紀』建長7年7月27日条によれば、同日に完成した御所へ後嵯峨上皇が御幸し、その造営には「両三年の間」が費やされた。同条には、実雄が讃岐国を与えられ、その収益を背景として亀山殿を造営し、上皇に献上したことが記されている[111][注釈 16]。翌28日条には、上皇が還御する際、この山間の居所が「亀山殿」と号されたことが記録されている[112]

『古今著聞集』には造営の具体的な年代は記されていないが、これらの記述に加え、『公卿補任』文永4年(1267年)の洞院公守の条に、父の実雄が「建長七年亀山殿造宮賞」を受けた記録があることから、実際の造営は建長4年(1252年)ないし建長5年(1253年)頃に開始され、建長7年(1255年)7月の移徙をもって完成したとみられる。

政局中枢への進出

正嘉元年(1257年)11月26日、権大納言であった実雄は内大臣に就任した。実雄は近衛大将を経ることなく大臣へと昇進したが、これは当時の官職体系において特徴的な事例とされる[113]

この任官が注目される背景には、後鳥羽院政期以降、近衛大将の人事が家格に応じて固定化していたことがある[114][注釈 17]

このような状況下で、実雄が当時左大将であった近衛基平ら摂家の大将を閣いて大臣に就任したことは、既存の昇進序列を越える人事であった。この人事は、実雄に対する後嵯峨院の信任や、西園寺一門の権勢を背景としたものと解される。また、この任官は後世において、非摂関家の地位向上を示す先例として認識された。応永31年(1424年)、清原良賢が朝廷に提出した勘状では、実雄の任官は花山院師信今出川公行の例とともに、摂家出身の近衛大将を越えて位次により大臣に任じられた先例として位置づけられている[116]

実雄自身は参議を経て権中納言に昇進しており、大臣就任以前に近衛大将も経験していない。これは、後世に清華家の典型的な官途とされた、参議を経ずに権中納言へ直任し、近衛大将を経て大臣へと昇進する経路とは異なるものであった[注釈 19]。そのため、室町時代に実雄の任官が非摂関家の大臣先例として参照されたことは、洞院家が清華家としての家格を確立していく過程を考える上で重要な事例である。

正元元年(1259年)11月8日、左大臣であった二条道良が急逝したことに伴い、朝廷の人事に変動が生じた[118]。後任の左大臣には前右大臣の西園寺公相が就任し、その結果、当時の廟堂は、関白・鷹司兼平、左大臣・西園寺公相、右大臣・洞院実雄、内大臣・近衛基平という4名の大臣によって構成されることとなった[118]。実雄を含むこの大臣構成は、弘長元年(1261年)2月27日に公相が左大臣を辞任するまで、文応年間を通じて維持された[118]。なお、この時期の廟堂は、元仁元年(1224年)以来長らく大臣以上の要職を占め続けてきた九条流の出身者が一人も含まれないという、異例の陣容であった[118]

左馬寮の知行

洞院家の経済的基盤となったものに、知行国と同等の収益を生むとされた左馬寮の知行権がある。左馬寮が西園寺家およびその一門の知行となった端緒は、承久2年(1220年)の祇園社造営に遡る[119][注釈 20]

西園寺家には、公経から相伝した伊予国や、鳥羽殿預・御厩別当などの権益があり、これらは鎌倉幕府の介入もあって容易には召し放たれない実質的な「家領」として定着していた[123][注釈 21]。これに対し、左馬寮の知行権は西園寺家と洞院家を含む一門の間で流動的に推移した。

左馬寮は元来、公経から異母弟の四辻実藤に譲られていた[119]。しかし文応元年(1260年)、日吉社神輿造進に際して実藤がその任を解かれたことを機に、後嵯峨上皇は右大臣であった実雄に左馬寮を与え、その対価として神輿の造進を命じた[119][129]。こうして実雄の手に渡った知行権は、さらにその子である公守へと継承された[130][131]

もっとも、左馬寮の知行はその後も安定しなかった。文永元年(1264年)には亀山天皇の命により公守から召し放たれ、西園寺実兼禅林寺御所造営の功により再び拝領し、一時は西園寺本家の手に戻った[132]。その後、二・三代の間は洞院家に遷替していたものの、弘安年間に至り、実兼の子である公衡が日吉神輿七基の造替および禅林寺御所造進の二つの功によって改めて朝恩として左馬寮を拝領し、その子実衡へと相続された[133]。最終的には洞院公守の子である実泰に給付されることとなり[134]、以降は再度洞院家が知行することとなった[130]

このように、左馬寮の知行権が西園寺家と洞院家の間を移動したことは、両家の間に経済的権益をめぐる利害対立が存在していたことを示している[135]。左馬寮の収益は、庶流として成立し、元来家産が乏しかった洞院家にとって、家の存続に関わる重要性を持っていた[136][注釈 22]

両院の別当

鎌倉遺文』所収の古文書から、実雄が後嵯峨院および安嘉門院院別当を務めていたことが確認される。弘長元年(1261年)11月の「後嵯峨院院庁下文」の末尾には「別当左大臣藤原朝臣」と署名があり[137]、また文永元年(1264年)12月の「安嘉門院邦子内親王令旨」にも「別当前左大臣藤原朝臣」とある[138]。同時期に左大臣・前左大臣であった藤原氏の人物は実雄にあたるため、これらの署名は、実雄が両院の別当として院庁文書の発給に関与していたことを示している。

徳政評定への参画

文永3年(1266年)、後嵯峨院政下の院評定において彗星の出現を契機とした「撫民」と「倹約」に関する徳政の検討が行われ、廷臣らから意見状が提出された[139]。宮内庁書陵部図書寮文庫に所蔵される九条家旧蔵の巻子本『撫民倹約之事(文永三年)』には、この時に作成された意見状案12通と送状案1通の計13通が収録されており、実雄の「前左大臣洞院実雄意見状案」も含まれている[140][注釈 23]

撫民事、
一、可半減自今年三ヶ年諸国諸庄園麦秋所済事、
右、国者以民為天[注釈 24]、非天者何戴、国者以民為本[注釈 25]、無本者何依、因茲以養民為徳政、以撫民為善政、思人民之類、為稼穡之象之故也、孔子曰、省力役、薄賦歛、則民富矣[注釈 26]、日本書紀曰、仁徳天皇御宇、百姓既貧、家無炊者、除三年課役[注釈 27]、寛平四年菅家勘奏済窮民条々、済窮民者、免調庸、省租税、減徭役、加賑恤之義也[注釈 28]、而今欲免調減租、則公用猶多、可致物煩、欲開倉加賑、則吏或不良、未必如実、伏望、省天下今年之半徭、以休息百姓之例役云々、世質人富之時、済民之謀猶不輒、国衰吏之今、撫民之実極難治歟、課諸国諸庄園、自今年三ヶ年、被半減麦秋之所済者、若得黎民之豊贍歟、偏是省貪吏害民煩、可為賢主攘災之術歟、但於一向夏穱為土貢之庄公者、可有斟酌之沙汰乎、
一、可宥小過事、
右、諸国之習、下民之愚、纔有小過之時、已称其罪之重、偏求吹之咎、令行終身之罪、或没収日用家屋、或奪取妻子僕従、国之亡弊、軄而斯由、永可被禁[注釈 29]

倹約事、

一、都鄙上下輩可止過分造作事、
右、漢文惜十家之産、太宗辞一閣之居[注釈 30]、況乎有澆季之時、営過分之大厦、凡厥美餝、動及金銀、邦之衰如此之類歟、但家受福貴之輩、為備公用、故成広博之華構、不在制限、然共被障屏風調度之綺麗者、堅可禁之、
一、貴賤緇素可止華美事、
右、八葉車華美、逐日倍増、太以無所拠、所々金物、只最要所省略可打之、又下簾不可用上絹、鞦不可用上糸、殊可被禁矣、
一、可停止沽酒事、
右、孝文皇帝詔曰、無乃百姓之従事於末以害農者蕃、為酒醪以靡穀者多、因茲孝皇帝三年禁酤酒、後漢孝和帝永年中、禁沽[注釈 31]、為漢胡之嘉謨、為斎戒之重禁、而如風聞者、巨富之輩相競為業、其一人之権費、千余之穀、況於数千人殆不可勝計、穀者百姓之本、万民之命也、豈可不惜乎、豈可不痛乎、但於酒者及止、於権酒者、一切可禁之歟、

以前条々者愚慮如斯、
我君御俗以来廿余載、聖化被朝野之泰平、叡心慕社稷之安全、然間頃年神社仏寺多以回禄、天変地夭頻以重畳、以何徳政決之哉、攘臣竊惇此縡、寤寐無聊、所詮諸人愁訴、弥任五道抛他事、可被決断歟、攘災之政、只可在此事、寒暑之不調、星曜之災異、起人之憂苦之故也、兼又去々年雖被下弘長之制符[注釈 32]、敢不及一々之施行、朝威之忽、盖如此事歟、諸公事興行之中、祈年祭料等、任式文殊課諸国、厳重全済之、依恐祭礼之陵退、忘人民之煩費、不知神明享乎不享哉、況不奉社、徒納置神祇官云々、旁似無其益、凡諸国亡弊、追年無、而於其勤者有増無減、新立庄園顛倒事、若猶可沙汰乎、又公事用途平均、雖徴収頗猶不足臨時催促連綿不絶、難息民肩歟、案折中之議、被止此用途、毎國被召事宜之一村、仰武家進清廉之実検、定其乃貢、支彼用途者、例臨時之公事、強不闕乏、成功任官之繁多、定若有余剰者、可被行臨時賑給哉、国出一村、休恒例臨時之役、更為兆民宥疲営徭苦之愁歟、撫民之源、又可在斯乎、雖恐下愚謹以上聞如件、

月八日、藤原実雄[注釈 33]

洞院実雄「前左大臣洞院実雄意見状案」

実雄の意見状は同年3月8日付と推定され、和漢の古典や先例を引用して政策提言を根拠づけながら、主に以下の5項目を具申している[141]

  • 孔子家語』の賦斂を薄くする教え、『日本書紀』における仁徳天皇の課役免除の故事、菅原道真の勘奏などを引き、諸国および諸荘園における麦の収穫期の所済を当年から3年間半減すること。
  • 微罪を赦免し、小過に対する過重な処罰や家屋・妻子・従者の没収を禁じること。
  • 貞観政要』に基づき、漢文帝が十家分の財産を惜しんで露台の造営を中止した故事や、唐太宗が楼閣一棟の造営を却けた故事を引き、都鄙および身分の上下を問わず過分な造作を停止すること。
  • 貴賤や僧俗を問わず、八葉車の金物・下簾・鞦など、乗車に関する過度に華美な装飾を停止すること。
  • 漢書』に見える漢文帝の詔や漢景帝の禁酤酒、『後漢書』に見える和帝の禁沽酒を引き、穀物を大量に消費する酒の販売を停止すること。ただし、酒造そのものについては停止の対象外としている。

さらに実雄は天変地異の頻発を憂いつつ、神事や仏事の過重な負担および新立荘園に関する問題を指摘した。また恒例や臨時の公事による用途を一時休止して鎌倉幕府と連携した清廉な実検の導入、ならびに成功や任官による余剰収益を窮民の救済に充てることなどを提案しており、当時の公家社会における撫民への志向や具体的な社会認識を深く窺わせる史料となっている[142]

本資料には、実雄を含む院評定衆とみられる公卿8名と、外記・史の上首4名による計12通の意見状案が収録されており、各具申者の具体的な提案内容は以下の通りである[143]

さらに見る 提出者, 官位 ...
文永3年『撫民倹約之事』における各廷臣の提案概要
提出者 官位 撫民に関する主な提案 倹約に関する主な提案
西園寺公相 従一位・前太政大臣 民の苦楽の把握、農作業の時期を奪わない使役の徹底 院宮以外の諸家における炉・炭取・灯台等への蒔絵および絹障子の使用停止
洞院実雄 従一位・前左大臣 麦秋の所済の3カ年半減、微罪の赦免、窮民への賑給 家屋の過分な造作停止、乗車装飾の抑制、酒の販売停止(酒造自体は対象外)
四条隆親 正二位・前大納言、兵部卿 農繁期における諸国の人夫・伝馬役の免除 旧器の修理・再利用による新造の回避、現に進行中の神社仏寺造営を除く諸人の営作の暫時停止
二条資季 正二位・前権大納言 受領による五節舞姫献上の配慮、国司や領家からの過重な課役への配慮 衣服の素材や染色の制限、調度品や書状用紙の過差停止
花山院師継 正二位・権大納言 沽価法による価格秩序の整備、新銭の施行、良吏の国宰への選任、諸国への医師配置、孝による教化 時宜に応じた式条の見直し、法会等における過差の省略
勘解由小路経光 正二位・前権中納言、民部卿 宰吏による賦役の緩和、禁省・陣中の警衛による往来人への掠奪の禁止 上古の倹素の奨励、衣服や従者の過差停止
吉田経俊 正三位・権中納言、大宰権帥 宰吏の非法停止、富裕層の資産による貧民救済、荒田の耕作奨励、刑罰緩和、洛中洛外の煩費停止 四位以下の衣装制限、車や僧侶の輿における過分な金物の停止、検非違使下部等に対する饗応の過差停止
法性寺顕雅 従二位・前参議 清廉な使者の派遣と実検、訴訟の早期裁決 衣装や供奉人数等の過差停止、堂宇・塔婆の過大な造営や仏像荘厳の華美の抑制
小槻有家 左大史 窮民の優恤、良吏の選定、悲田院等の運営支援 過去の厳制の遵行、衣服や邸宅および饗宴等の過差停止
小槻秀氏 右大史 諸国の臨時役および雇夫の停止、人の勾引・売買の取締り、飢民への賑給 衣服の素材制限、院宮王臣家における盥・灯台等への蒔絵の停止
清原良季[注釈 34] 大外記 訴訟の早期裁決、施薬院や悲田院の興行、窮民の優恤 上下の衣装過差停止、身分不相応な振る舞いの禁止
中原師顕[注釈 35] 大炊頭兼大外記博士周防権守 所務における非法の停止、農繁期への配慮 織物等の使用制限、神物以外の金銀装飾停止
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外戚化と本家との確執

西園寺本家との関係において、実雄の立場は複雑なものであった。仁治3年(1242年)、後嵯峨天皇の即位に際して、実雄の父である公経は当初、九条道家とともに順徳天皇の皇子である忠成王を推していた[144]。しかし、道家が幕府との関係を悪化させる一方で、公経は忠成王のために用意していた衣服を後嵯峨天皇に転用して儀式を執り行うという方針転換を見せた[144]。この転換の結果、公経の孫娘である姞子が入内し、西園寺家は後深草・亀山の二代の天皇の外戚としての地位を確立した[144]

しかし、実雄の娘である佶子が亀山天皇の皇后となり、のちの後宇多天皇を産んだことで、本家との力関係に変化が生じた。実氏の孫娘である嬉子は亀山天皇の中宮であったが皇子に恵まれず、西園寺家庶流であった洞院家が次代天皇の外戚の地位を得ることとなった。『増鏡』には、後宇多天皇の誕生と立太子を祝う洞院家と、それに警戒感を抱く西園寺本家との対比が描かれており、両家の競合関係を示す挿話となっている[144]

さらに、文永4年(1267年)に実氏の嫡男である公相が、同6年(1269年)には実氏自身が相次いで没し、跡を継いだ嫡孫の実兼はまだ21歳であった。この時期、実雄は前左大臣として院評定衆を務めるなど公家政権の重鎮であり、過渡期の西園寺一門の政治的地位を維持する上で重要な役割を果たした[34]。一方で、実兼は洞院家の外戚化に危機感を抱き、後深草院と提携して、実雄の別の娘である愔子を母とする熈仁親王(のちの伏見天皇)を擁立した。熈仁親王の生母が実雄の娘であるにもかかわらず、親王を支える東宮職には洞院家の者がほとんど登用されず、実兼自身がその頂点である東宮大夫を務めたことは、実兼による洞院家への政治的牽制と解される[145]

このように、実雄と洞院家は、天皇家の外戚地位や官位昇進をめぐって西園寺本家と競合する一方、仏事などの祭祀においては本家と結びつきを保っていた[130][注釈 36]。実雄やその子・公守は、北山の西園寺で営まれた父・公経や祖父・実宗命日の法華八講に出席しており、政治的には対立の火種を抱えつつも、仏事空間を共有することで西園寺一門としての結束を維持していた[130]

治天の君の決定

文永9年(1272年)2月に後嵯峨法皇が崩御したのち、法皇の四十九日にあたる同年4月7日、実雄は法皇の寵臣として、大宮院や円助法親王[注釈 37]らと相会して法皇の遺書を開き、その定めに従って遺領処分などの諸事を奉行した[146]

この遺詔において法皇は遺領の配分を詳細に定めており、次代の政務を執る「治世の君」には六勝寺とその寺領および鳥羽殿が譲与されることとなっていた[146]。また、亀山天皇へは冷泉殿御文庫・讃岐および美濃両国の国衙領・和歌や蹴鞠に関する文書が、後深草上皇へは熱田社領・播磨国衙領・肥前国神埼荘および諸家の記録が譲与され、その他にも大宮院・准后棟子宗尊親王・円助法親王らへそれぞれ領所が分与された[146]

一方で、法皇は治天の君の指名そのものについては明言せず、鎌倉幕府の推戴に委ねていた。当時、対外問題の切迫もあり事態の専決を避けた幕府は、大宮院に対して「故法皇の素意が後深草上皇と亀山天皇のどちらにあったか」を尋ねた[147]。この際、大宮院および円助法親王は「法皇の素意は亀山天皇にあった」と幕府へ回答したが、旧院司である実雄もこれに歩調を合わせ、亀山天皇を治天の君として推戴する決定に関与した[147][148][注釈 38]

実雄や大宮院・円助らによる強い後押しは、亀山天皇が治天の君として嫡流の待遇を受ける決定打となり、その治世を安定させることとなった。しかし一方で、長幼の序を重んじて治天の君となることを予測していた後深草上皇側は、遺領の多くが事実上亀山天皇の管領に帰したことも相まって、この裁定に強い不満と怨恨を抱く結果となった[147]

晩年の知行国交替

実雄の最晩年にあたる文永10年(1273年)4月、実雄が甲斐国を知行していたこと[注釈 39]と、その交替の事情を示す記録が存在する[153][154]春日若宮の神主であった中臣祐賢の日記『中臣祐賢記』同年4月26日条には、鷹司兼平が甲斐国を新たに拝領したこと、同国の以前の国司が「京極大臣殿」であったこと、また安芸国祇園社の造替のために立て替えられたことが記されている[153][154][155]

同条から、甲斐国はそれまで実雄の知行国であったが、祇園社造替に伴う知行国の交替によって兼平の沙汰に移ったことが知られる[153][154]。この記録は、実雄が病により出家・薨去する数か月前の知行国の状況を示すとともに、寺社造営が知行国交替の契機となり得たことを示す事例である。

最期と薨去

『増鏡』の「あすか川」の巻では、実雄の晩年と最期が、後嵯峨院の崩御に続く一連の不幸と、それによる深い嘆きの中で描かれている。

文永9年(1272年)2月に後嵯峨院が崩御すると、実雄は深く嘆き悲しんだ。その悲しみに追い打ちをかけるように、一族にも不幸が相次いだ。まず、院の寵愛を受けていた次男の公雄が、院の追善のために突如として出家した。実雄は公雄の出家を深く嘆くとともに、かつて「かひなき物思ひの積り(かいのない物思いが積もった結果)」によって弘長3年(1263年)に若くして没していた長男の公宗をも思い起こし、家門の前途を悲観した。

さらに、実雄が心細く思っている中、娘である佶子も薨去した。度重なる不幸により実雄は病に伏し、しだいに衰弱していった。実雄は、自らが外祖父として春宮(のちの後宇多天皇)の御代を見届けることは叶わないであろうと悟り、その心境を詠んだ歌が『続拾遺和歌集』にも収められている。

述懐歌の中に
はかなくもおふのうらなし君が世にならばと身をも憑みけるかな
— 山階入道左大臣(尊経閣文庫蔵本『続拾遺和歌集』巻十六・雑歌上、1119番)

『増鏡』は、実雄が嘆きに耐えきれずついに薨去したことについて、「物思ふには、げに命も尽くるわざなりけり(物思いによって、世間で言う通り本当に寿命も尽きてしまうものだ)」と評して締めくくっている。

佐藤敏彦氏は、こうした実雄の薨去に関する一連の記述について、『増鏡』作者の特有の意図を指摘している。佐藤によれば、『増鏡』は西園寺家当主の西園寺実氏の繁栄を詳述する一方で、文永6年(1269年)の実氏の薨去には触れていない。これに対し、実雄については後嵯峨院崩御後の悲劇の連鎖の中に集約して位置づけ、その最期を強調している[156][注釈 40]

史実においては、『経俊卿記』によると、実雄は文永10年(1273年)8月16日の午前6時頃に薨去した[157]

春宮の無服

実雄の薨去直後、実雄の外孫にあたる春宮・世仁親王(当時7歳)が、外祖父の死に際して喪に服すべきかが朝廷内で議論となった[158]。明法博士の中原章澄中原章兼に諮問がなされ、章澄は「仮寧令の条文に基づき、7歳以前でも軽服はある」とした[159]が、章兼は「7歳までは無服、8歳から服忌がある」と主張した[160]

最終的には、延喜年間の惟宗公方の勘状に基づき、「7歳の幼児に軽服の例はない」として、春宮は喪に服さないことに決定した[161][注釈 41]。9月1日、春宮は御所に入ったが、決定通り軽服の儀は行われず、神事中であったにもかかわらず還御したとされる[162]

薨去後の待遇

実雄の薨去後、朝廷から官位の特段の追贈は行われなかった。下表は、鎌倉時代の歴代天皇・院の外祖父について、区分・出身・生前の極位極官および死後の追贈状況をまとめたものである。

さらに見る 代, 天皇・院 ...
鎌倉時代の歴代天皇・院の外祖父(区分・出身・極位極官・死後の追贈)
天皇・院 区分 外祖父 出身 生前の極位極官 死後の追贈
第82代 後鳥羽天皇 実外祖父藤原信隆藤原北家道隆流坊門家従三位・修理大夫贈従一位・左大臣
第83代 土御門天皇 養外祖父源通親村上源氏久我流正二位・内大臣贈従一位
実外祖父能円藤原北家勧修寺流法勝寺執行なし
第84代 順徳天皇 実外祖父藤原範季藤原南家貞嗣流高倉家従二位・式部権少輔贈従一位・左大臣
第85代 仲恭天皇 実外祖父九条良経藤原北家御堂流九条家従一位・太政大臣・摂政なし
(太上天皇) 後高倉院 実外祖父藤原信隆藤原北家道隆流坊門家従三位・修理大夫贈従一位・左大臣
第86代 後堀河天皇 実外祖父持明院基家藤原北家末茂流持明院家正二位・権中納言なし
第87代 四条天皇 実外祖父九条道家藤原北家御堂流九条家従一位・左大臣・摂政・関白なし
第88代 後嵯峨天皇 実外祖父源通宗村上源氏久我流正四位下・参議・左近衛中将贈従一位・左大臣
第89代 後深草天皇 実外祖父西園寺実氏藤原北家閑院流西園寺家従一位・太政大臣なし
第90代 亀山天皇 実外祖父西園寺実氏藤原北家閑院流西園寺家従一位・太政大臣なし
第91代 後宇多天皇 実外祖父洞院実雄藤原北家閑院流洞院家従一位・左大臣なし
第92代 伏見天皇 実外祖父洞院実雄藤原北家閑院流洞院家従一位・左大臣なし
第93代 後伏見天皇 実外祖父五辻経氏藤原北家花山院流五辻家従三位・参議なし
第94代 後二条天皇 養外祖父堀川基具村上源氏久我流堀川家従一位・太政大臣なし
実外祖父堀川具守村上源氏久我流堀川家従一位・内大臣、左近衛大将なし
第95代 花園天皇 実外祖父洞院実雄藤原北家閑院流洞院家従一位・左大臣なし
第96代 後醍醐天皇 養外祖父花山院師継藤原北家師実流花山院家正二位・内大臣なし
実外祖父五辻忠継藤原北家花山院流五辻家従三位・参議なし
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これらの事例をみると、鎌倉時代の天皇・院の外祖父に対する死後の追贈は一律ではなく、生前の官位・官職、外戚関係の性格、当該天皇の即位時期などに左右されたとみられる。表に掲げた範囲では、生前に従一位・大臣に達していた九条良経・九条道家・西園寺実氏・洞院実雄・堀川基具・堀川具守らには、死後に改めて贈位・贈官が行われた例は確認されない。一方で、生前の位階が従一位に達していなかった藤原信隆・藤原範季・源通宗らには贈従一位・左大臣、源通親には贈従一位が行われた。ただし、正二位以下であっても、能円・持明院基家・五辻経氏・花山院師継・五辻忠継のように追贈を受けない例もあり、生前の官位のみをもって追贈の有無を説明することはできない。

実雄は生前に従一位・左大臣に達しており、非摂関家の公卿としてはきわめて高い官位・官職に昇っていた。そのため、鎌倉時代の通常の贈位・贈官の範囲では、死後にさらに追贈を加える必要性は相対的に小さかったと考えられる。ただし、これは追贈が制度上不可能であったことを意味するものではなく、あくまで同時代の事例との比較からみた説明である。

平安時代後期には、非摂関家出身の外戚に対する破格の待遇として、正一位や太政大臣が追贈された先例も存在した。延久5年(1073年)には白河天皇が外祖父の藤原能信に正一位・太政大臣を追贈し、嘉承2年(1107年)には鳥羽天皇が外祖父の藤原実季に正一位・太政大臣を追贈している[163]。しかし、鎌倉時代には、臣下に対する正一位の追贈は承久2年(1220年)の平親範の例などに限られ、天皇外祖父に対する追贈も多くは贈従一位・左大臣、または贈従一位にとどまった[注釈 42]。したがって、生前すでに従一位・左大臣に達していた実雄については、鎌倉期の通常の追贈慣行の範囲内では、さらに追贈を加える必要性は相対的に小さかったと考えられる。

また、実雄は後宇多・伏見・花園天皇の外祖父にあたるが、3人の天皇の即位はいずれも実雄の薨去後であった。実雄が文永10年(1273年)に薨去した時点で、後宇多天皇・伏見天皇はまだ即位しておらず、花園天皇は未出生であった。そのため、実雄は生前に天皇外祖父としての地位を政治的に享受したわけではなく、この点も、外戚としての位置づけや薨去後の待遇を考えるうえで注意される。

もっとも、実雄の外孫が即位した後も、洞院家の外戚としての地位が直ちに安定した礼遇へ結びついたわけではなかった。実雄の娘・季子は花園天皇の生母であったが、花園天皇は後伏見院の猶子として立太子し、のち即位したため、季子の国母としての待遇には複雑な経緯があった[注釈 43]

関連年表

以下の表は、実雄本人の叙位・任官・出仕・和歌活動などを中心に、子女・外孫を含む一族の主要事績を年次順に整理したものである。官歴関係の記事については、特記なき限り、主として『公卿補任』の記録に基づく[167]

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年号(西暦)月日(旧暦)年齢出来事
建保5年(1217年)是年1歳誕生(父太政大臣西園寺公経、母権中納言平親宗女七条院女房)
嘉禄3年(1227年)2月1日11歳叙爵(従五位下)
3月24日任侍従
寛喜元年(1229年)1月30日13歳叙従五位上
4月18日任左近衛少将
寛喜2年(1230年)1月24日14歳兼備後介
寛喜3年(1231年)1月5日15歳叙正五位下
4月19日 可補蔵人之由承之[168]
寛喜4年/貞永元年(1232年 10月4日 16歲 四条天皇受禅参仕[168]
貞永2年(1233年)1月6日17歳叙従四位下
貞永3年/文暦元年(1234年)12月21日18歳任左中弁(左少将如元)
文暦2年/嘉禎元年(1235年)1月23日19歳兼加賀権介(少将重兼国)
1月28日叙従四位上、候官奏[169]
2月6日聴禁色
2月9日春日祭上卿代参行[170]
閏6月11日兼左宮城使
8月12日 依諒闇畢由行大祓、実雄参向朱雀門[171]
嘉禎2年(1236年)2月30日20歳任左近衛中将(去左中弁)、同日補任蔵人頭
5月6日叙正四位下
12月18日叙従三位(元蔵人頭、左中将如元)
嘉禎3年(1237年)1月24日21歳兼土佐権守
12月25日任参議(左中将、土佐権守如元)
嘉禎4年/暦仁元年(1238年)2月28日22歳将軍藤原頼経権中納言拝賀扈従[172]
3月7日任右衛門督兼検非違使別当
3月28日 四条天皇春日社初度行幸参仕[173]
3月29日叙正三位(春日行幸行事賞)
7月20日任権中納言(右衛門督検非違使別当如元)
8月28日辞検非違使別当(右衛門督如元)
11月23日改元定参仕、挙延仁・暦仁二号[174][175]
延応元年(1239年)1月24日23歳辞右衛門督、兼皇后宮権大夫
11月12日止権大夫(依院号也)
仁治元年(1240年) 1月5日 24歳 四条天皇御元服参仕[176]
10月24日叙従二位(超葉室資頼
仁治2年(1241年) 4月17日 25歳 九条道家同16日御灌頂被行後夜時参入[177]
6月10日 為御躰御卜奏上卿[168]
是年長男公宗誕生(母藤原栄子)
仁治3年(1242年) 1月5日 26歳 叙位議参仕[168]
1月20日 後嵯峨天皇御元服参仕[168]
3月7日任権大納言(超越権中納言葉室資頼
3月9日 後嵯峨天皇神祇官行幸供奉[168]
3月28日 後嵯峨天皇即位式参仕[178]
6月3日 西園寺姞子入内扈従[168]
6月10日 西園寺姞子露顕参仕[168]
7月10日 後嵯峨天皇西园寺公経今出川亭御幸供奉[168]
8月9日 西園寺姞子立后参仕[168]
8月19日 中宮姞子初度入内扈従[168]
10月21日 大嘗会御禊行幸供奉[168]
仁治4年/寛元元年(1243年)2月2日27歳叙正二位(臨時、超越前権中納言藤原親俊
2月26日 改元定参仕、於宣仁門代外蒙大臣許、挙元延一号(依経光座遠人隔、取様并作法等委不能視聴)[168]
寛元2年(1244年)8月29日28歳服解(父)
11月5日復任
11月25日著重服之後復任之前初参内[179]
寛元3年(1245年)是年29歳長女佶子誕生(母藤原栄子)[180]
寛元4年(1246年) 1月2日 30歳 関白二条良実家及承明門院拝礼答拜[168][178]
1月3日 九条道家東山殿御会参仕[178]
1月28日 一条実経関白拝賀参仕[178]
1月29日 後嵯峨天皇讓位参仕、同日、参後嵯峨院、被奏慶賀[178][181]
2月13日 為後深草天皇践祚以後政始上卿[182]
2月16日 後嵯峨院承明門院初度御幸供奉[183]
3月2日 後嵯峨院六条殿御幸参仕[178]
3月20日 一条実経叙従一位拝賀扈従[178]
3月22日 宗尊親王院御所御行始供奉[178]
3月27日 氏院参賀(依雨経南庭於西透廊再拝)[178]
4月17日 後嵯峨院西園寺実氏常磐井第御幸参仕、実雄為御車寄[178]
4月22日 近衛家実相謁実雄(家実籠居之後殆今日始謁)[184]
4月23日 宗尊親王御着袴参仕、実雄為後嵯峨院御前陪膳[178]
4月27日 後嵯峨院石清水八幡宮御幸参仕、実雄為御剣役[178]
5月20日 後嵯峨院八幡御参籠参仕[178]
5月21日 御宮廻、実雄御奉幣伝進[178]
6月28日 祇園御霊会及馬長御覧参仕、実雄被召御前[178]
9月9日 実雄被示送云、可献五節薄様少々可相訪、経光答承之由[168]
10月21日 経光借召実雄唐鞍、為経書一行遣送遣実雄許了[168]
11月22日 後深草天皇官庁行幸並後嵯峨院斎場所御覧、実雄自院遣童女装束[178]
是年次女愔子誕生(母藤原臧子)[185]
寛元5年/宝治元年(1247年) 1月1日 31歳 摂政一条実経家四方拝・拝礼参仕[178]
1月12日 後嵯峨院法勝寺修正御幸供奉[178]
2月27日 後嵯峨院西園寺御幸供奉[178]
2月28日宝治改元定参仕、挙嘉元・正安二号[178]
3月3日後嵯峨院北山西園寺第御幸、詠翫花和歌出詠[178][186]
5月9日 後嵯峨院新日吉社御幸供奉[178]
5月11日 後嵯峨院六条殿御幸供奉[178]
7月18日 後嵯峨院西園寺御幸扈従[178]
7月24日 院御所七夜定、院司実雄仰可定申之由、同日、中宮御産用大治定文事実雄与奪之(依土御門顕定近有妻室不吉事、徳大寺実基申障也)[178]
8月27日 後嵯峨院院作文会参会(題明月多佳趣)、同日、為中宮御産御祈実雄有用途[178]
9月院御歌合出詠[187]
9月15日 院詩歌合出詠(題山家秋興)[178]
宝治2年(1248年) 1月1日 32歳 院御所拝礼参仕[178]
1月6日 御幸始供奉[178]
1月13日 後嵯峨院法勝寺御幸供奉[178]
1月17日 院和歌御会、実雄為講師(題松色春久)[178]
1月28日宝治百首出詠
3月13日 後嵯院長講堂御八講御幸供奉[178]
5月2日 院最勝王経講参仕[178]
7月6日 後嵯峨院法勝寺御八講供奉[178]
7月24日 後嵯峨院宇治真木島亭御幸参仕[178]
8月3日 釈奠参仕[178]
8月5日 後嵯峨院稲荷・祇園両社初度御幸供奉、実雄御禊陪膳[178]
8月30日 後嵯峨院御馬御覧参仕、同日院和歌御会出詠[178]
9月1日 後嵯峨院自鳥羽殿還御参仕[178]
9月12日 後嵯峨院鳥羽殿御幸参仕[178]
10月21日後嵯峨上皇宇治御幸供奉、無召参御船[188]
10月23日宇治御幸中、代西園寺公相供御膳(依公相早出之故也)[178]
11月25日 豊明節会参仕[178]
12月25日 宗尊親王御書始参仕[178]
宝治3年/建長元年(1249年)2月1日33歳閑院内裏焼亡、献車二両、奉遷主上・皇后宮并剣璽[189][190]
2月8日次男公雄叙従五位下
是年補皇子恒仁親王御乳父[191]
是年三男公守誕生(母法印公審女栄子)
建長2年(1250年)5月20日34歳次男公雄任侍従
建長3年(1251年)4月3日35歳次男公雄叙従五位上
6月27日後深草天皇新造閑院内裏遷幸参仕[192]
9月13日後嵯峨院仙洞影供歌合出詠[193]
建長4年(1252年)1月5日36歳次男公雄叙正五位下
6月22日給讃岐国(三条公貫兼任讃岐守)
12月4日次男公雄任右近衛少将
建長5年(1253年)1月5日37歳三男公守叙従五位下
1月13日次男公雄兼遠江権介
建長6年(1254年)1月6日38歳次男公雄叙従四位下
1月7日次男公雄叙留
4月7日三男公守叙従五位上
建長7年(1255年)2月13日39歳三男公守任侍従
4月12日次男公雄転右近衛中将
7月27日以讃岐国造進御所、被献後嵯峨院(同28日号亀山殿)[194]
10月27日後嵯峨上皇亀山殿御幸(実雄造進之)[168]
建長8年/康元元年(1256年)1月6日40歳次男公雄叙従四位上
3月祇園社領萱原神田安堵(同20日国司藤原経業施行)[195][196]
7月2日次男公雄転左近衛中将
11月22日次男公雄兼中宮権亮
康元2年/正嘉元年(1257年)1月22日41歳次男公雄兼美濃権介
3月29日三男公守叙正五位下(実雄建長7年亀山殿造営賞譲)
11月26日任内大臣(内大臣西園寺公基任右大臣)
正嘉2年(1258年)1月5日42歳長男公宗叙従三位(同7日左中将如元)
2月26日次男公雄聴禁色
5月14日次男公雄叙正四位下
8月7日長男公宗兼東宮権大夫
11月1日任右大臣、同日兼東宮傅(右大臣西園寺公基同10月22日辞官)
12月14日三男公守任右近衛少将
正嘉3年/正元元年(1259年)3月6日43歳北山行幸和歌出詠[197]
3月8日長男公宗叙正三位、三男公守叙従四位下(朝覲行幸、大宮院御給)
3月西園寺一切経供養御遊、為東宮傅取進春宮御笛筥蓋[198]
11月長男公宗止春宮権大夫(依春宮践祚)
11月21日三男公守叙従四位上(御即位、東宮御給)
11月26日為前太政大臣鷹司兼平関白・准摂政・公卿昇殿・勅授帯剣・牛車如元宣下上卿[199]
12月19日中宮西園寺公子被定院号参仕、次男公雄兼中宮権亮[200]
正元2年/文応元年(1260年)3月29日44歳長男公宗兼駿河権守、三男公守転右近衛中将
4月13日為改元定及摂津国司申雑事八箇条上卿(依代始也)[201]
4月14日東二条院亀山殿御幸、乗御船之間於釣殿奏実雄所作歌曲[201]
4月19日後嵯峨院御所二条殿皇女五十日儀参仕[201]
5月19日依後嵯峨院御願被賜左馬寮令沙汰者[202]
9月10日大嘗会御禊装束司已下除目上卿[203]
9月21日除服可従事之由宣下(左大臣西園寺公相同9月16日宣下)
10月21日長女佶子奉仕大嘗会御禊女御代[204]
12月7日長女佶子叙従三位[185]
12月22日長女佶子入内[205]
12月25日長女佶子為女御[185]
文応2年/弘長元年(1261年)1月5日45歳三男公守叙正四位下、兼讃岐介(院御給)
1月8日三男公守兼中宮権亮
2月7日三男公守聴禁色
2月8日長女佶子為中宮、長男公宗兼中宮権大夫[185]
3月14日後嵯峨院被献尊号兵仗等御報書参仕[206]
3月27日任大臣節会、転左大臣(左大臣西園寺公相同2月27日辞官)[206]
5月10日後嵯峨院如法経十種供養儀御所作参仕[207]
5月25日次男公雄叙従三位(左中将如元)
7月26日為定春季御読経日時上卿、実雄蔵人所別当宣下、同日奏慶[208]
8月長男公宗転皇后宮権大夫
8月20日長女佶子為皇后宮、三男公守兼皇后宮権亮[209]
9月4日後嵯峨院法隆寺御幸供奉[210]
11月見後嵯峨院院別当[137]
是年斎藤行宗於実雄第元服[211]
弘長2年(1262年)1月5日46歳叙位執筆、同日加叙次従一位[212]
1月19日次男公雄兼尾張権守
2月27日後嵯峨院始恒例御経及御懺法参仕[213]
3月29日次男公雄叙正三位
6月19日長女佶子著帯、被行御産御祈[214]
7月13日長女佶子受戒於天台座主尊助親王[214]
7月16日長男公宗任権中納言
8月20日長女佶子受戒於天台座主尊助親王[214]
10月13日長男公宗止皇后宮権大夫、次男公雄兼皇后宮権大夫
11月9日長女佶子生睍子内親王[215]
11月14日睍子内親王七夜儀[216]
弘長3年(1263年)1月6日47歳叙位執筆[217]
1月7日白馬節会内弁[217]
1月8日睍子内親王五十日儀[216]
2月15日嵯峨殿和歌御会作序[218]
2月19日長男公宗叙従二位
3月19日睍子内親王百日儀[216]
3月20日上表(前摂政左大臣一条実経同8月12日還任左大臣)
3月21日長男公宗薨去(依腫物病)
是年次女愔子生皇子某[219]
文永元年(1264年)3月4日48歳下向木崎温泉[219]
6月6日以伊賀国造進祇園神輿一基[219]
6月23日睍子内親王魚味儀於内裏有之[219]
7月9日睍子内親王薨去[219]
8月23日移徙山科山庄[219]
12月見安嘉門院院別当[138]
12月24日次男公雄止皇后宮権大夫
文永2年(1265年)3月4日49歳亀山殿尊勝陀羅尼供養参入[219]
3月25日長女佶子著帯、被行御産御祈[220]
4月23日次女愔子生熙仁親王(辰刻、伏見天皇)[215]
4月28日亀山殿和歌撰集評定事参入[219]
7月7日白河殿七百首出詠
7月11日長女佶子生知仁親王[215]
7月15日知仁親王五夜儀[219]
7月16日知仁親王浴殿始儀[219]
7月17日知仁親王七夜儀[216]
7月21日皇后宮御所修七仏薬師法[219]
8月10日知仁親王宣下[219]
9月4日三男公守転左近衛中将、知仁親王始参内、長女佶子自二条殿移万里小路殿[219]
9月9日知仁親王五十日儀(於内裏)[219]
9月13日亀山殿五首歌合出詠
10月26日知仁親王百日儀(於内裏)[219]
11月17日長女佶子行啓五条殿、知仁親王渡五条殿[219]
是年三女季子誕生(母大神能直女)[185]
文永3年(1266年)1月17日50歳長女佶子行啓二条殿[219]
2月1日三男公守兼能登権介
2月18日下向木崎温泉[219]
3月8日進意見状案、申撫民倹約事[221]
3月12日後嵯峨院御所続古今集竟宴和歌出詠[219]
5月14日後高倉院御八講参入[219]
10月24日次男公雄任参議(左中将如元)
11月2日大雪、与二条為氏贈答和歌[222]、同日、次男公雄兼左兵衛督、補検非違使別当
12月7日長女佶子自二条殿行啓五条殿[219]
文永4年(1267年)2月1日51歳三男公守叙従三位(同日左中将如元)、次男公雄兼備前権守
2月13日知仁親王魚味儀(於後嵯峨上皇御所)[219]
2月23日次男公雄任権中納言
2月25日下向美作国勝間田温泉[219]
2月27日次男公雄任左兵衛督、検非違使別当如元
5月4日長女佶子依病自五条内裏移西園寺公兼四条高倉第[223]
5月5日長女佶子蒙天皇御書進御返事[223]
6月21日次男公雄辞左兵衛督・検非違使別当
6月27日長女佶子参内[223]
6月29日長女佶子著帯、被行御産御祈[223]
8月9日長女佶子方違行啓亀山殿[219]
8月20日知仁親王薨去[219]
8月29日長女佶子移御産所土御門殿[219]
10月13日長女佶子御産三夜定[224]
10月30日次女愔子生満仁親王[225]
11月2日長女佶子御産御祈、奉幣於十三社[223]
12月1日長女佶子生世仁親王[220]
12月5日世仁親王五夜儀[219]
12月7日世仁親王七夜儀[216]
12月19日世仁親王御祈始[223]
文永5年(1268年)1月7日52歳四男公尹叙爵(皇后宮御給)
1月20日世仁親王五十日儀(於富小路殿)[226]
2月20日次男公雄叙従二位
2月25日世仁親王百日儀(於後嵯峨上皇御所)[226]
6月25日世仁親王宣下[223]
8月25日世仁親王立太子[223]
8月28日長女佶子依御悩移御嵯峨殿[223]
9月21日春宮世仁親王七瀬御祓[223]
文永6年(1269年)1月1日53歳東宮戴餅儀参仕[227]
4月10日四男公尹叙従五位上
6月7日次男公雄聴帯剣
10月19日春宮世仁親王著袴[223]
12月2日春宮世仁親王剪髪[223]
12月3日長女佶子行啓某所
文永7年(1270年)1月5日54歳次男公雄叙正二位
1月21日三男公守任権中納言
3月11日三男公守聴帯剣
8月21日依内裏五条殿炎上、長女佶子与亀山天皇相共行啓万里小路殿[223]
9月4日三男公守叙正三位
文永8年(1271年)1月5日55歳四男公尹叙正五位下(皇后宮御給)
1月9日詩歌御会始参仕(詩題与花契万春)[228]
3月6日春宮世仁親王巳日御祓[223]
3月8日三男公守兼皇后宮権大夫
3月18日春宮世仁親王中巳日御祓[223]
3月30日春宮世仁親王下巳日御祓[223]
7月16日春宮世仁親王不豫、聊有御減気[223]
8月21日皇后宮佶子行啓実雄第[229]
8月23日熙仁親王著袴[215]
10月19日春宮世仁親王参内[223]
11月21日春宮世仁親王鎮魂祭[223]
12月19日皇子満仁親王宣下(母次女愔子)[230]
文永9年(1272年)1月5日56歳三男公守叙従二位(院当年御給)
2月17日後嵯峨院崩御、後院司実雄為凶事奉行[231]
2月22日次男公雄出家(法名顕覚)
8月9日皇后宮佶子於大炊御門第崩御(同夜、被定院号京極院)、三男公守止皇后宮権大夫[232]
8月13日葬京極院於山科(実雄山荘辺)[232]
8月18日春宮世仁親王移桟敷殿(依母京極院崩御事)[232]
10月9日春宮世仁親王自桟敷殿還御宮中[233]
12月20日四男公尹任侍従
是年次女愔子生久子内親王[180]
文永10年(1273年)4月26日57歳見甲斐前司(依祇園社造替、以甲斐国為鷹司兼平知行)[234]
閏5月30日春宮世仁親王行啓二条殿(依内裏御神事)[223]
6月15日春宮世仁親王自二条殿還啓[223]
6月16日春宮世仁親王書始[235]
8月4日出家(依所労危急也、法名経学、或作経覚、淨覚)[3]
8月9日為京極院御一廻聖忌修御仏事[236][3]
8月16日薨去(享年57、号山階、或号鷲)、春宮世仁親王服忌事有議定、三男公守・四男公尹服解、同日、議定延引[234][3]
8月17日薨去後春宮世仁親王無軽服(7歳無服殤由、明法博士章澄申之者)[3]
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人物・逸話

蔵人頭拝賀の牛車流用

嘉禎2年(1236年)2月30日、実雄は左中弁を辞して左近衛中将に任じられ、同日に蔵人頭に補任された。この就任に伴う拝賀の儀式において、本来であれば新たな官職に適合する牛車を調える必要があった。しかし実雄は、車を新調することによる儀式の遅延を避けるため、弁官時代から常用していた「小八葉」の牛車をそのまま拝賀に用いた[237]

延文元年(1356年)、新たに蔵人頭の拝賀を行うこととなった日野時光は、実雄の曾孫である洞院公賢に対して、装束や牛車の仕様に関する詳細な照会を行った。時光はその書状の中で、かつて実雄が車を新調せずに弁官時代の車を用いた先例を挙げている[237][注釈 44]。このやり取りは、実雄の任官儀礼が後世の先例として参照されたことを示すとともに、公家社会における先例確認のあり方をうかがわせる。

『飾抄』に見る装束

故実書である『飾抄』には、実雄が公事において着用した装束の細かな記録が残されており、当時の規範や流行を知る上での具体的な事例として挙げられている。

松重の下襲

松重は四季を通じて用いられる色目とされる。嘉禎3年(1237年)4月26日の石清水八幡宮行幸において、当時三位中将であった実雄が松重の下襲を着用したことが記録されている。この際、実雄は捻重文の筥形を用い、表袴には白浮文を合わせていた[240]

青朽葉の下襲

青朽葉は夏、特に盛夏や最勝講の時期に用いられる色目である[241]。嘉禎2年(1236年)5月23日の最勝講において、実雄は法会が5日目に進んだ日にこれを着用した。同席した中院通成の青朽葉が「色が濃く華やか」であったのに対し、実雄の着用したものは「色が薄かった」と特記されており[242]、同じ色目であっても、着用者によって色調に差異があったことがうかがえる。

唐装束

嘉禎2年(1236年)5月23日の最勝講において、実雄は「左頭中将」として唐装束を着用したことが記されている。実雄は顕文紗の赤色の下襲を用いたが、表袴について、著者の中院通方は「縮線綾であろうか、はっきりとは見えなかった」と記している[243]。さらに後聞として「固文であったようだ」としながらも、この表袴の選択について「適切ではなかったのではないか」と疑義を呈している[244]。当時の装束規範に照らし、議論の余地がある着こなしであった可能性を示す記事である。

野剣

野剣は、近衛次将などが束帯で出仕する際に佩用する剣である。通例、次将は木地の鞘を用いるが、嘉禎年間の御禊において、当時弁少将であった実雄は、公卿などが用いる「蒔絵螺鈿」の野剣を佩用した。本来の規範から外れるようにみえるこの選択について、通方は「きっと先例があるのであろう。宿老に尋ねるべきである」と記している[245]。実雄の佩用した野剣が、当時の慣習上確認を要する異例のものであったか、あるいは何らかの先例に基づくものであったことを伝えている。

和歌に見る蝦夷観

実雄が宝治2年(1248年)の『宝治百首』において「えぞ」を詠み込んだ和歌からは、当時の貴族が抱いていた蝦夷観をうかがうことができる。

夕霧にえぞ過ぎやらぬあづまぢや関はかすみの名にたてれども
—実雄(宮内庁書陵部蔵本『宝治百首』冬十首、1769番)

和歌において「えぞ」を強調の副詞として用いる用法は、すでに藤原敦頼の「便りあらば津軽の奥にとめられてえぞ帰らぬと妹に告げばや」(『歌林』)に見られ、さらに小大進の「語らえばえぞ過ぎやらむほととぎす声には関もすえじと思ふに」(『久安六年御百首』)においては、陸奥からの連想により関と結びつく表現が確立していた[246] 。実雄の和歌はこれらの系譜に連なるものであり、当該歌における「えぞ」も強調の副詞的用法として使われ、陸奥への連想から関と結びついている。こうした和歌における蝦夷観は、人間集団の実体には関連しないものであり、未知の土地への興味やエキゾティックな世界を作品に表現したいという欲求に基づくものと考えられている[247][注釈 45]

宇治御幸の無召参入

宝治2年(1248年)10月21日、後嵯峨上皇による宇治平等院への御幸が行われた際[248]、一行が宇治川の河岸に至り、御車から御船へと乗り換える局面で折からの激しい大風雨に見舞われた[249]、この荒天により、供奉の人々は笠の紐が解けるほど翻弄され[250]、乗船の是非や「御車を舁き入れるべきか、あるいは長承元年の先例[注釈 46]に倣い橋を用いるべきか」といった具体的な対応を巡り諸卿の意見も分かれる混乱を極めたが、最終的に上皇は下車しての乗船を強行した[251]、この緊迫した状況下において、正式に召しを受けた堀川具実四条隆親らが船へ入るのに続き、実雄は召しがなかったにもかかわらず中院通成北畠雅家らと共に自らの判断で乗り込んだ[252]、同記はこの振る舞いに対し、「お呼びがかかっていないのに乗り込んだが、これは勝手に押し掛けたということだろうか、その理由はわからない」と、その異例な行動の背景に疑念を呈している[253]。また、この乗船時の一件については『葉黄記』同月23日条にも言及があり、「隆親や実雄などの公卿は御船に召されておらず、お呼ばれしていなかったのではないか」と記され[254]、実雄が無召のまま参入した事実を裏付けている[注釈 47]

21日の実雄は、縹織物の狩衣に文入りの唐烏帽子を合わせ、黄色の衣と単、そして薄色の堅織物の指貫という出で立ちで供奉に及んでいる[255]。なお、後日である同月23日の時点での実雄の装束について、『葉黄記』は浮き織りの文様がある香色の紗の狩衣を着用していたと伝えている[256]。さらにこの23日には、本来供奉すべきであった西園寺公相が早出してしまったため、権大納言であった実雄が急遽代わって上皇への御膳を供進する役目を担うなど、御幸中において臨機応変な対応に追われる姿も確認できる[257]

『弁内侍日記』に描かれた貴公子像

『弁内侍日記』には、実雄の風雅な振る舞いや機知、女房たちとの諧謔的な応酬、さらには出仕の間遠さを揶揄された逸話などが数多く記されている。実雄は、宮廷社会の中枢に位置しながら、堅苦しさを感じさせない滑稽味と教養を備えた人物として描かれている。ただし、これらの記事は実雄の人物像をそのまま客観的に伝えるものというより、弁内侍の関心と作品構成を通して形づくられたものでもある。阿部真弓氏は、宝治元年の記事において、実雄をはじめとする西園寺家周辺の公卿の言動が前景化されており、西園寺家への賛美が宮廷賛美に次ぐ重要な主題をなしていると指摘している[258]

宮廷文化における風雅と教養

実雄は、宮廷の日常において景物や古歌に対する感受性を示している。宮中の御溝水に山吹の花が流れるのを目にした際には、即座に吉野川の情景になぞらえて「新吉野川」の風情であると評し、その発言が周囲の女房たちの詠歌の契機となった[259]

退出に際して古歌を口ずさむ場面も記されている。後深草天皇の就寝後には、御格子の外に立ち止まり、「さすや岡辺の松の葉の」という古歌を繰り返し口ずさんだ。その様子は女房たちの関心を引き、弁内侍の詠歌の契機となっている[260]

その後、近辺で火事の騒ぎが起こると、実雄は女房たちを伴って南殿の方へ歩いて行った。左衛門陣の階には霜が一面に白く降り、身震いするほど冷え込んでいたが、弁内侍はその光景を興趣あるものとして受け止め、凍りつくような霜の夜にも消えずに残る火事を、消しがたい恋の炎になぞらえて歌を詠んだ[261]。実雄と女房たちが、夜間の火事騒ぎや厳しい寒気さえも即座に和歌の趣向へと転じていた宮廷生活の一端を伝える逸話である。

また、久我通光の娘である大納言二位から献上された小草子には、趣深い恋歌を数多く美しく書き記しており、実雄の書の巧みさをうかがわせる逸話となっている[262]

ただし、実雄の和歌が常に高く評価されていたわけではない。勾当内侍の局の前に咲く梅を題材とした贈答では、弁内侍が勾当内侍に代わって歌を詠み、実雄が、かつてその局を使用していた宰相殿に代わって返歌を詠んだ[263]。弁内侍の歌は「色も香も」、実雄の返歌は「今九重」という語句を用いていたが、これを聞いた西園寺実氏は、後嵯峨上皇の「色も香も重ねて匂へ梅の花九重になる宿のしるしに」という秀歌を踏まえながら、その語句や趣向を安易に重ねたものとして、双方とも詠み損じであると批評した。弁内侍はこの批評を面目ないこととして受け止めつつ、自らの失敗をさらに和歌に詠んでいる[264]

8月15日に院御所で催された御連歌では、夜が更けて後夜の鐘が聞こえると、実雄は御簾のそばに寄り、「もう後夜の時になる、ぼんやりしていては夜が明けるので、早く句を付けよ」と女房たちに催促した。これに対し、少将内侍と弁内侍は、澄んだ鐘の音に聞き入って付句を忘れたことを、それぞれ歌に詠んでいる[265]。実雄が連歌の進行を促しながら、女房たちに軽妙な調子で声を掛ける様子を伝える逸話である。

日記の後段にも、実雄が古歌を口ずさみながら退出する場面がみえる。昼番の折には「今夜は夜通し伺候する」と述べながら、有明の月が出る頃に退出し、その途中で「思はぬ方にたなびきにけり」という古歌を吟じた[266]

このような実雄の姿は、別の公卿の振る舞いを評する際の比較対象ともなった。これに続く10月16日の記事では、新大納言・実藤が夜番を終えて退出する際、切簾の辺りに立ち止まり、さりげない調子で「韓神」を歌った。これを見聞きした少将内侍は、里下がりしていた弁内侍に対し、その様子は、かつて実雄が「塩屋の煙」にちなむ古歌を吟じて退出した時にも劣らない風情であったとして知らせている[267]。この比較からは、実雄の古歌を伴う退出の姿が女房たちの記憶に残り、他の貴公子の風雅な振る舞いを評価する際の一つの基準となっていたことがうかがえる。

女房たちとの諧謔と贈答

実雄と女房たちとの間には、言葉遊びや和歌を介した諧謔的な交流がしばしばみられる。宿直中に摂政から時刻を尋ねられた際には、「亥の時」と「起きて居る」を掛けて「起きて居の時」と答えるなど、当意即妙な言葉遊びをみせている[268]

また、常御所の庭に植えられた「かしらけずらず(髪を梳かさない)」と呼ばれる木については、その名に掛けて「垢臭く、汚らしいようだ」と冗談を述べ、周囲を興じさせた[269]

とりわけ正月十五日の粥杖では、実雄と女房たちとの間で一夜にわたる攻防が繰り広げられた。女房たちは実雄を不意に打とうとして御所内の各所に分かれて待ち伏せたが、実雄はその企てを警戒し、殿上間の壁に尻を寄せて打たれないよう身構えながら月を眺め、明け方まで退出しなかった[270]。結局、実雄は油小路の門から打たれることなく退出したため、少将内侍は杖の先に和歌を挟んで後を追わせ、これに実雄も返歌を寄せた[271]

(正月十五日の朝、退出した実雄に対し、少将内侍が杖の先に挟んで追わせた歌)
うちわびぬこころくらべのつゑなれば月みであかすなこそをしけれ[注釈 48]
— 少将内侍
(返し)
うちわぶるこころもしらでありあけの月のたよりにいでにけるかな[注釈 49]
— 権大納言さねを

この最初の応酬に続き、翌日の夕方、実雄は「足の冷えた人々へ」という趣旨の上書を付した手紙を女房たちに送った。その中で、待ち伏せの末に疲れて眠ったこと、灯を消して実雄の様子をうかがったこと、さらに月明かりの下で宿直姿の脛が見えていたことを取り上げ、女房たちを鋭くからかう三首を贈っている[271]

(翌日の夕方、実雄から女房たちに送られた歌)
うちわびてねにける夜半のかねの音におどろかされて月やながめし[注釈 50]
まちかねし身はなつむしのともしけちいたづらごとにものおもひけん[注釈 51]
御はぎのふときほそきもたちそひて月にわすれぬよはのおもかげ[注釈 52]
— 権大納言さねを
(返し)
うちはへてぬるとはなにぞありあけの月をみすてしこころならひか[注釈 53]
いさしらずたれ夏むしのともしけちたけのはかぜやふきもしつらん[注釈 54]
わすれずよ月のおもかげたちそひてその御はぎもくるしかりけん[注釈 55]
— 弁内侍

これに対し、弁内侍も女房側を代表して三首を返し、実雄の言い分を否定するとともに、尻を打たれまいとして壁に身を寄せ続けた姿をからかい返した[272]。この一連の贈答では、実雄と女房たちが互いの失策や姿態を遠慮なく笑いの対象とし、粥杖の身体的な攻防を和歌による知恵比べへと展開させている。

このような女房たちとの歌の応酬は、実雄が宮中を離れていた際にも続いている。実雄が城崎の湯へ湯治に赴き、雪が深く積もった頃には、兵衛督を介して内侍たちに歌を送り、山中から宮中の雪を思いやった。少将内侍は、都の雪の中にあっても、旅先の実雄が雪を踏み分けて進む道を思いやっているとの歌を返している[273]

(城崎の湯に滞在していた実雄が、兵衛督を介して内侍たちに送った歌)
ここのへにふりつもるらん白雪をふかきみやまに思ひこそやれ[注釈 56]
— 権大納言さねを
(返し)
ここのへの雪の中にもたび人のふみみる道を思ひこそやれ[注釈 57]
— 少将内侍

さらに弁内侍は、使者が雪道を踏み分けて都まで文を届けられた以上、城崎の山中にも宮中を上回るほど雪が深く積もっているとは思われないと詠み、実雄の表現を軽妙に切り返した[273]。この贈答からは、遠方に滞在している間にも、実雄と内侍たちとの間で気遣いと諧謔を交えた交流が続いていたことがうかがえる。

非常時の対応と出仕の間遠さ

建長元年の内裏焼亡に際しては、実雄の車が最も早く参着し、天皇・皇后および剣璽の避難に用いられたほか、実雄自身も公基・公相らとともに、騒乱の中で「甲斐甲斐しく」立ち働いたと記されている[102]。避難後には大納言らが馬寮の馬に乗って諸門を守護する様子も描かれており、実雄が非常時に中枢の廷臣として事態の収拾にあたったことが示されている[274]

一方、平時の出仕については、その間遠さを女房たちから揶揄されることもあった。実雄が黒戸の御番を欠きがちになり、宮中への出仕が途絶えがちであった時期には、少将内侍が、宮中と縁を絶ったかのように姿を見せず、七夕彦星と同じく年に一度の参上を待つほどであると詠んだ。これに弁内侍も、天の川の遠近は渡ろうとする本人の心次第であるという趣旨の歌を続けており、実雄の出仕の少なさを和歌によって揶揄している[275]

宮廷遊戯における実雄像

幼少の後深草天皇が、節会や臨時祭の次第を女房たちに模倣させて見物した際には、中納言典侍が権大納言実雄の役を演じている。節会で内弁を務めるよう促されると、中納言典侍は「襪を履くこともできないほど足を患っている」と称して辞退し、局へ逃げ込んだ。これに対し、弁内侍は、その足の具合を揶揄する歌を書いて蘆の葉に結び、中納言典侍の局の簾に挿している[276]

この場面は、実雄自身の実際の言動を記録したものではなく、女房が実雄に扮して演じた宮廷遊戯である。そのため、実雄が現実に足の病を理由として内弁を辞退したことを示す記事とはみなしがたい。一方で、実雄が節会の内弁を務める上卿として女房たちに認識され、その役柄が宮廷内の戯れの中で演じられるほど、身近で識別しやすい公卿の一人であったことを示す逸話といえる[276]

「あやしの下女の見奉るもいと恥づかしく」

『徒然草』第107段には、山階左大臣殿、すなわち実雄の言として、「あやしの下女の見奉るも、いとはづかしく、心づかひせらるる」とする逸話がみえる。これは、身分の低い女性に見られるだけでも気恥ずかしく、身の振る舞いに心を配らされる、という趣旨の言葉である。同段では、亀山院の御時、女房たちが若い貴族たちに「郭公や聞き給へる」と問いかけ、その応答を試した話に続き、堀川具守九条師教・実雄の言動が挙げられている[277]

上島眞智子氏は、この箇所について、具守・師教・実雄の三人を、女性への応対に品格を備えた上流貴族として描くものと捉えている[277]。すなわち、具守の嫌味のない応答、幼少の師教の上品な言葉遣い、身分を問わず女性に節度ある振る舞いをする実雄の言葉を、それぞれ「好もしい男性三人」の逸話として位置づけている[277][注釈 58]

院落書の政治風刺

正元2年(1260年)正月17日、後嵯峨上皇の仙洞御所に当時の政情を批判する「院落書」が貼り出された[278][注釈 59]

この落書は、「年始凶事アリ、国土災難アリ、京中武士アリ、政ニ僻事アリ、朝議偏頗アリ、諸国饑饉アリ、天子二言アリ、院中念仏アリ、当世両院アリ、ソソロニ御幸アリ」と書き出され、当時の政治や社会の矛盾を列挙している。そのため、正元2年の落書は単なる風刺に留まらず、その後の動乱を暗示する讖言としても意味を持つものと評価されている[278]

また、本文中に「山訴訟に道理あり」と記されていることから、延暦寺に近い立場から執筆されたものと推測される[279]。その中で、当時の政府高官を揶揄する一節として「左府官運あり、右府に果報あり、内府にシヽあり」と記されており、当時右大臣であった実雄も「右府」として風刺の対象となった。「右府に果報あり」という表現は、飢饉や寺社抗争、皇位継承をめぐる不安が重なり、落書の末尾で「聖運ステニスヱニアリ」と結ばれるような状況の中で[278]、政権中枢にあった実雄ら高官の官運や地位を皮肉ったものと解される。

御子左家との親交

実雄以来、洞院家と御子左家は、和歌の家学と人的交流を通じて関係を結んでいた。『園太暦』延文元年(1356年)11月13日条には、両家には代々の由緒があり、実雄が二条為氏の邸をしばしば訪れ、寄宿することもあったと記されている[280]

文永3年(1266年)11月2日の大雪の朝には、両者の間で和歌の贈答が行われた。その様子は『新千載和歌集』に採録されている。

文永三年十一月二日雪いとふかくふりて侍りける朝に、山階入道前左大臣のもとへ申しおくり侍りける
とへかしな跡ある道はうづもれて雪にもふかくつもるうらみを
— 前大納言為氏(『新千載和歌集』巻第十八・雑歌下、1837番)
返し
ふみわけてなほもつかへよしらゆきのあとあるみちはむもれはてじを
— 山階入道前左大臣(『新千載和歌集』巻第十八・雑歌下、1838番)

為氏が、積雪によって往来が途絶えたことへの「うらみ」を雪の深さに託して詠んだのに対し、実雄は「ふみ」の掛詞を用い、雪を踏み分け、また送られた文の意を汲み分けて、なおも訪ねてきてほしいと返している。この贈答からは、雪が積もっても往来を絶やさないとする両者の親交がうかがえる。

この関係は後代にも意識されていた。延文4年(1359年)5月16日、為氏の子孫である二条為定が『新千載和歌集』の四季部を奏覧した際、実雄の曾孫である洞院公賢を和歌所に招いて一覧させた[注釈 60]。こうした事例は、実雄と為氏の交友が、後代の洞院家においても御子左家との由緒として意識されていたことを示している。

兄弟間の礼節

曾孫にあたる洞院公賢の日記『園太暦』には、実雄の身内に対する姿勢をうかがわせる逸話が記されている。

貞和5年(1349年)正月、公賢が同族の清水谷実種実材兄弟から「兄弟間の礼節」について尋ねられた際、故実として実雄の例を引いている。それによれば、西園寺家の嫡男である長兄・西園寺実氏に対し、別の弟である一条実有は家礼をとらなかったが、実雄は実氏に対して「父子礼」をとっていたという。

公賢はこれについて、「兄弟の礼に定法はなく、その人の心によるものである」と回答している[285]。この逸話は、実雄が長兄である実氏に対して、父子に準じる礼を尽くしていたことを示している。

石山寺信仰と一族の栄花

左下に束帯姿で描かれた洞院実雄が、娘の安産を祈願する願文を石山寺座主に奉納する場面(『石山寺縁起絵巻』)

石山寺縁起絵巻』巻6には、実雄の石山寺への帰依と、それによってもたらされたとされる洞院家の繁栄が描かれている。

文永4年(1267年)、実雄の娘である京極院亀山天皇の皇子(後の後宇多天皇)を懐妊した際、実雄は石山寺に安産を祈願して願書を奉納した。詞書によれば、無事に皇子が誕生した際の産儀は、近くは寛元年間の先例[注釈 61]にならいつつ、遠くは寛弘の昔の例[注釈 62]にも劣らない評判であったとされる[286][注釈 63]

実雄の石山寺への祈願と佶子の安産は、後代の洞院家においても一族の繁栄を示す重要な先例として認識されていた。実雄の曾孫にあたる洞院公賢観応2年(1351年)に石山寺へ奉納した願文によれば、公賢は、実雄が佶子の懐妊と皇子降誕を祈願した故事に言及し、武家の台頭によって朝廷が危機に直面する状況の中で、実雄の先例にならい、石山寺観音の加護による皇運の回復を祈願している[288]

また、『石山寺縁起絵巻』は、実雄が石山寺に深く帰依した功徳により、佶子のみならず愔子・季子も国母となり、後宇多・伏見花園の三代の天皇が実雄の外孫として誕生したと記している[289]。実雄の娘たちが大覚寺統と持明院統の両統において国母となったことで、洞院家は歴代が大臣に任ぜられる有力な家柄となった[290]。同絵巻では、こうした外戚としての政治的権勢に加え、子孫の公守実泰が政務のみならず、詩歌や管弦、書道などの諸芸にも秀でていたことが述べられ[291]、文永年間以来の洞院家の繁栄は、観音の利生によるものであると結ばれている[292]

こうした背景から、本絵巻は、外戚として繁栄する洞院家が観音への報謝の意味を込めて制作を企画したものと考えられている[290][293][注釈 64]

さらに、石山寺に伝来する「絹本著色普賢十羅刹女像」[注釈 65]の制作背景についても、洞院家の人的関係との関連が指摘されている。中村暢子の研究によれば、同図が大覚寺統ゆかりの図像(旧益田家本系)と持明院統ゆかりの図像(大福寺本系)という、本来相異なる二系統の図像をともに参照している点は、両統の国母を輩出した洞院家の特殊な立場によるものと推測されている[295]。すなわち、本図は法華経行者の往生を荘厳するために、観音信仰と並行して実雄周辺の人的ネットワークの中で制作・奉納された可能性が高いとされる[296]

後宇多天皇誕生時の祥瑞感得

『後宇多上皇遺告』には、実雄が外孫である後宇多天皇の誕生に際して祥瑞を感得した逸話が記されている。天皇の出生当日、虚空に両部曼荼羅が現れるという奇瑞が起きたとされ、これを目撃した実雄は「この子は皇統を継承する器量を持っている」と考えた[297][298]。その一方で実雄は、もし即位しなければ「仏家に入る兆しではないか」と密かに憂愕し、この懸念を誰にも語らずに胸に秘めていたという[299]。後に天皇が2歳で皇太子に立てられ、8歳で践祚したことで、この逸話は、実雄が外祖父として外孫の将来を早くから見通していたことを示すものとして語られている[297][300]

また、実雄が密かに抱いた「仏家に入る兆し」という懸念は、後宇多天皇の密教への傾倒とも結びつけられている[297][298]。後宇多天皇は幼少の頃から仏法への帰依を示し、土器を並べ、折敷を焼いて護摩法を模し、高座に昇って講論を擬するなど、密教に対して強い関心を示していたとされる[297][301]。成人してからも学問を好んで経史に広く通じ、顕密の法を学ぶなど、密教の探求へと傾倒していった[297][298][注釈 66]

なお、実雄が目撃したとされる出生時の奇瑞について、その歴史的な真偽自体は定かではない[297]藤井譲治氏は、実雄が虚空に両部曼荼羅を見たという記述について、『弘法大師御遺告』に見える空海出生時の奇瑞を意識したものとみている[297]。その上で、この記述は、後宇多法皇の密教への強い関心が誕生の時点から運命づけられていたものとして象徴的に示す役割を持ち、その証言者として外祖父である実雄が配置されたものと解される[297]

亀山殿五首歌合での論争

文永2年(1265年)9月13日、実雄は、後嵯峨院が亀山殿で主催した「亀山殿五首歌合」に出仕した。この歌合の二十七番(左・真観、右・小倉公雄)の判定に際し、実雄に関する逸話が『水蛙眼目』に残されている。

右方の公雄が詠んだ紅葉の歌[304][注釈 67]に対し、後嵯峨上皇が何度も詠み上げて感興を示した際、実雄は中座から進み出て御前で拝礼し、「天徳内裏歌合の先例」[注釈 68]を引用した。実雄はこれに倣って公雄の歌に「勝」を与えるよう奏請し、周囲の人々もこれに同調した[305]

しかし、真観は、自身の詠んだ左歌[306][注釈 69]について、「御幸を待つ」という趣向を主張した。その上で、右歌に対しては、紅葉が「散る」と詠まれている点を難とし、古い歌合でも同様の表現がしばしば難点とされてきたとして、「勝」を認めなかった[307]。結局、判定は「持」とされ、その際の真観の態度は「傍若無人」と評されたという[308]

和歌懐紙の書式

正和4年(1315年)4月21日条の『公衡公記』所収の静覚書状には、春日社頭における法華経一品和歌の懐紙について、端作・位署・行数をめぐる問答が記されている。同書状では、一首懐紙の行数について「三行三字」と「三行」の先例が列挙されており、実雄は「三行」で和歌懐紙を書いた例として挙げられている[309][注釈 70]

文化・業績

権門歌人としての足跡

21番・山階入道前左大臣(『後撰百人一首』)[注釈 71]

実雄は、宝治年間(1247-1249)以降、後嵯峨院歌壇の主要な歌会・歌合に列し、自らも歌会を催すなどして歌壇において活動した[11]。当時の権門の代表格として、御子左家の歌人らとともに名を連ね、自邸にも主要歌人を迎えて歌会を催したことから、政治的地位を背景としつつ、宮廷歌壇においても一定の存在感を有していたことがうかがえる。

また、後嵯峨院は白河院や後鳥羽院を範としつつ、宮廷和歌の隆盛を意図して後嵯峨院歌壇を形成し、『続後撰和歌集』・『続古今和歌集』の撰進、「宝治百首」・「弘長百首」の詠進、「院御歌合」・「影供歌合」・「亀山殿五首御歌合」などを主催した[311]。実雄もこれら後嵯峨院主催の大規模な歌会・歌合にたびたび出詠し、鎌倉中期の宮廷歌壇を構成する有力歌人の一人として活動した。

歌会・歌合

主な活動としては、他者が主催する歌会・歌合への参加と、自邸における歌会の開催の双方が挙げられる[注釈 72]

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後嵯峨院歌壇などにおける主な出詠・採録
年月日歌会・歌合実雄の関与・概要
宝治元年(1247年)3月3日 宝治元年後嵯峨院詠翫花和歌 出詠。後嵯峨院が西園寺実氏の北山西園寺第に花見の御幸を行った際の和歌御会で、歌題は「翫花」。実氏による真名序を伴い、後嵯峨院以下計13名の歌人による13首からなる[312]
宝治元年(1247年)9月 院御歌合 出詠。後嵯峨院主催の歌合で、「百三十番歌合」「宝治歌合」「宝治二年歌合」「内裏歌合」「後嵯峨院歌合」「宝治二年仙洞歌合」「十首歌合」などとも称される[313]。院御所冷泉万里小路殿において、歌人を左右に分け、10題を詠ませた全130番の歌合で、実雄は右方として出詠した[313]
宝治2年(1248年) 宝治百首 出詠。『続後撰和歌集』撰進のために催された、後嵯峨院以下40名の歌人による百首歌。宝治元年(1247年)に藤原為家が中心となって歌題および歌人25人を選定し、後に15人が追加された[314]。本百首からは実雄の詠歌を含む23人57首が『続後撰和歌集』に採録されている[314]
建長3年(1251年)9月13日 影供歌合 出詠。後嵯峨院仙洞で行われた影供歌合であり、『岡屋関白記』同日条によって催行が裏付けられる[315]。当時の主要歌人42名が参加し、左右各21名に分かれて10題10首を結番した全210番の大歌合で、同年12月に奏覧された『続後撰和歌集』の最後の詠作提供を目的としたものとされる[315]
正嘉3年/正元元年(1259年)3月6日 北山行幸和歌 出詠。「正嘉三年北山行幸和歌」とも称される。後嵯峨院妃で西園寺実氏女の大宮院が北山第で行った一切経供養の翌日に催された後宴歌会で、後深草天皇の行幸があった[316]。後嵯峨院・西園寺実氏のほか、35名の女房・廷臣が詠進した[316]
弘長2年(1262年)9月 三十六人大歌合 実雄の詠歌が採られる。現存諸本はいずれも同一系統に属し、大きな異同はない。序文によれば、当時現存していた歌人36人の詠歌を番えた歌仙秀歌撰歌合である[317]。実雄は第6番に置かれ、三品親王家小督と番えられている[317]
文永2年(1265年)9月13日 亀山殿五首御歌合 出詠。「仙洞歌合」「五十番歌合」とも称される。後嵯峨院が亀山殿で催した歌合で、歌題は「河月・野鹿・山紅葉・不逢恋・絶恋」の5題であった[318]。左右計20名から成り、実雄は右方として出詠した[318]。『続古今和歌集』に15首が入集したのをはじめ、勅撰集には計37首が入集している[318]
文永3年(1266年)3月12日 続古今和歌集竟宴和歌 出詠。竟宴和歌は宮廷和歌儀礼の一つで、中世には勅撰集の完成を祝して「新古今集竟宴和歌」「続古今集竟宴和歌」などが作られた[319]。本竟宴は『続古今和歌集』撰集終功に際して催されたもので、その次第を記した記録として「続古今集竟宴記」がある[320]
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他者の主催する歌会への参加にとどまらず、実雄は自邸においても歌会を催した。

さらに見る 歌会, 概要 ...
実雄邸における主な歌会
歌会概要
「山階入道左大臣家十首歌」 詠歌の一部は『続拾遺和歌集』に収められている。参加者には、安嘉門院四条源兼氏・藤原為家・津守国助・二条為氏・洞院公守らが名を連ねた。
「前左大臣家月次十首」 文永7年(1270年)8月から翌文永8年(1271年)春にかけて、実雄邸において開催された月次歌会。計10回行われ百首になったとされる。出詠者は実雄やその子の公雄・公守・公方のほか、藤原為家・二条為氏ら御子左家とその周辺歌人にほぼ限られていた。特に藤原為家の家集である『為家集』に収められた和歌の歌題からは、為家が本歌会にたびたび参加していたことがうかがえる。
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和歌

実雄は、『続後撰和歌集』で初入集して以来、勅撰和歌集に計82首が入集している[35]。部立別には春12首・夏5首・秋16首・冬4首・恋14首・雑14首・賀7首・神祇3首・羈旅5首・哀傷2首である。

また、勅撰集にとどまらず、私撰集歌学書にも多数採用されている。具体的には、宝治年間に成立した反御子左派の私撰集である『万代和歌集』に7首、建長年間に真観(小野春雄)が撰じた『秋風抄』に4首、『現存和歌六帖』に9首が入集している。のちの時代に編纂された書物でも、勝間田長清編『夫木和歌抄』に10首、由阿編『六華和歌集』に1首、山科言緒編『題林愚抄』に38首、澄月編『歌枕名寄』に2首が採録されている。

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勅撰集入集和歌一覧
歌集名 番号[注釈 73] 詞書 本文 署名
続後撰和歌集 176 百首歌たてまつりし時、待郭公といへる心を われぞまづこととひわたる郭公人づてにだになほまたれつつ[注釈 74] 権大納言実雄
278 入道前摂政家に秋の三十首歌よみ侍りけるに、よみてつかはしける ときわかずいつもゆふべはあるものを秋しもなどてかなしかるらん[注釈 75]
354 九月十三夜十首歌合に、名所月 おきつかぜ吹上のはまの白妙になほすみのぼる秋のよのつき[注釈 76]
421 九月十三夜十首歌合に、行路紅葉 たまぼこのみち行人の袖の色もうつるばかりにそむるもみぢば[注釈 77]
451 しばしだに猶たちかへれまくずはらうらがれてゆく秋のわかれぢ[注釈 78]
490 月さゆるとよのあかりの雲の上にをとめの袖もひかりそへつつ[注釈 79]
566 百首歌たてまつりし時、寄社祝 神がきやみむろのさか木ゆふかけていのるやちよもわがきみのため[注釈 80]
753 まつしまやあまのもしほ木それならでこりぬおもひにたつ煙かな[注釈 81]
続古今和歌集 19 きえそむる雪まもあらばとぶひのにはやしたもえのわかなつみてん[注釈 82] 前左大臣
290 ふきそめていくかもあらぬあきかぜにいとはやそでのつゆけかるらん[注釈 83]
330 十首歌たてまつりけるに ひとりぬるとこはよさむのあきかぜにしたばいろづくにはのはぎはら[注釈 84]
520 題しらず そめてけりまなくときなく露じものかさなる山のみねの紅葉ば[注釈 85]
631 衣でのたなかみがはやこほるらんみをのやまかぜさえまさるなり[注釈 86]
1031 吹田十首歌に なにはなるみつとばかりのちぎりにておきふしあしのねこそなかるれ[注釈 87]
1134 寄水恋のこころを うかりけるこころをしらでやましろの井でのたまみづなにたのみけん[注釈 88]
1287 宝治二年百首の歌に、寄虫恋を 身をかへてなにしかおもふ空蝉の世はたのまれぬ人のこころを[注釈 89]
1296 建長六年三首歌講じ侍りしに としへてもなほあふことはかたをかのまつこそこひのいのちなりけれ[注釈 90]
1448 権中納言公宗やよひのすゑつかた身まかり侍りければよみ侍りける またもこむはるのわかれをなげきしはせめておもひのなきよなりけり[注釈 91]
1450 返し いまさらにつねなきよをばおどろかでしりていとはぬみをなげくかな[注釈 92]
1610 神な月のころ、山しなの山庄に侍りけるに、時雨し侍りけるひ、女房のもとに申しおくり侍りし しぐれのみおとはのさとはちかけれどみやこの人のことづてはなし[注釈 93]
1870 建長六年三月西園寺にて三首歌合に、桜を としどしのみゆきかさなるやまざくらはなのところははるもかぎらじ[注釈 94]
続拾遺和歌集 31 文永二年七月白川殿にて人人題をさぐりて七百首歌つかうまつりける時、滝霞を みなかみは雲のいづくも見えわかずかすみておつる布引の滝[注釈 95] 山階入道左大臣
46 家に十首歌よみ侍りけるに、梅風といへる心を 梅がかは花なきさともにほふらしかきねつづきの春の夕かぜ[注釈 96]
147 けふとてや大宮人の白妙にかさねてきたる蝉のはごろも[注釈 97]
353 秋歌とてよみ侍りける 吹きしをるむべ山かぜのあらし山まだき木のはの色ぞしぐるる[注釈 98]
554 家に十首歌よみ侍りける時、夏草を 草ふかき夏のの道にまよひても世のことわりぞさらにしらるる[注釈 99]
572 常盤井入道前太政大臣家の十五首歌に いかなりし秋に涙の落ちそめて身はならはしと袖のぬるらん[注釈 100]
731 弘長三年二月亀山殿に行幸ありて、花契遐年といふことを講ぜられけるに、序たてまつりて ことしより行幸にちぎる山桜おもふもひさし万代の春[注釈 101]
739 家に十首歌よみ侍りけるに、秋祝 雲のうへに影をならべて久かたの月ぞちとせの秋もすむべき[注釈 102]
885 常盤井入道前太政大臣家に十五首歌よみ侍りけるに おもはずにあはれつれなき命かないけらば後のたのみばかりに[注釈 103]
905 いまこんとたのめぬ夜はの月をだに猶まち出づる在明の空[注釈 104]
1119 述懐歌の中に はかなくもおふのうらなし君が世にならばと身をも憑みけるかな[注釈 105]
1434 神祇歌の中に ちはやぶるをしほの山のみねにおふる松ぞ神代のことはしるらん[注釈 106]
1443 前大僧正道玄おなじき社にて人人にすすめ侍りける廿一首歌の中に あまくだる神を日よしにあふぎてぞ曇なかれと代を祈りける[注釈 107]
新後撰和歌集 14 建長六年三首歌合に、鶯 あさみどり四方のこずゑはかすめどもかくれぬ物は鶯のこゑ[注釈 108]
79 山風は心してふけ高砂のをのへのさくらいまさかりなり[注釈 109]
231 夏歌の中に 分けわびていまも人めはかれぬべししげる夏野の草のふかさに[注釈 110]
584 宝治元年、十首歌合に、旅宿嵐 いく夜われかたしきわびぬ旅衣かさなる山の峰のあらしに[注釈 111]
585 やよひの比、たじまのゆあみにまかり侍りける道にてよみ侍りける おもひおく宮この花の面影のたちもはなれぬ山のはの雲[注釈 112]
815 宝治百首歌たてまつりける時、寄湊恋 せきかねぬ物おもふ袖のみなと川今はつつまぬ名をやながさん[注釈 113]
1542 西園寺入道前太政大臣身まかりて第三年の秋、常磐井入道前太政大臣家にて三首歌よみ侍りけるに、秋暮雨といふ事を ふりにける年の三とせの秋の雨さらにゆふべの空ぞかなしき[注釈 114]
玉葉和歌集 149 山花 春霞あやななたちそ雲のゐるとほ山ざくらよそにてもみん[注釈 115] 山階入道前左大臣
491 萩をよみ侍りける から衣つまどふしかのなく時はすそののはぎの花もさきけり[注釈 116]
1085 建長五年七月三首歌めされける時、述懐の心を 君がへむ千世にやちよの末までも我が身かはらずつかへてしかな[注釈 117]
1191 野べのいほ磯のとまやの旅枕ならはぬ夢はむすぶともなし[注釈 118]
1999 返し ややふくるわが世のほどの面影を雲ゐの月にいかがならべむ[注釈 119]
2521 身もつらく世もうらめしきふしぶしをわすれぬ物は涙なりけり[注釈 120]
続千載和歌集 74 宝治百首歌たてまつりける時、山花 をとめごがかづらき山のさくら花こころにかけてみぬ時ぞなき[注釈 121] 山階入道左大臣
203 宝治二年百首歌に、惜花 いかにしてしばしとどめんさくら花ちりなばなげの春の日かずを[注釈 122]
264 郭公一声ゆゑにむさしのの野をなつかしみ過ぎもやられず[注釈 123]
773 行くこまの跡だにもなし旅人のかち野の原にしげる夏草[注釈 124]
1143 寄山恋の心をよみ侍りける とにかくに心ひとつをつくば山しげき人めにもる涙かな[注釈 125]
続後拾遺和歌集 42 家に十首歌よみ侍りけるに、柳露 さほ姫の手染の糸をよりかけて露の玉ぬく春の青柳[注釈 126]
955 光明峰寺入道前摂政家の三十首歌中に 恨みても恋ひても露ぞこぼれける忍の山のくずの下風[注釈 127]
1053 今更に惜しくも有るかな兼てより思ひし年のをはりなれども[注釈 128]
風雅和歌集 696 宝治百首歌に、重陽宴を なが月のきくのさか月ここのへにいくめぐりとも秋はかぎらじ[注釈 129] 山階入道前左大臣
955 露ながらむすぶをざさのかり枕かりそめぶしのいく夜へぬらむ[注釈 130]
1717 宝治百首歌に、江蘆を なには江に夕しほとほくみちぬらし見らくすくなき蘆のむら立[注釈 131]
1775 宝治百首歌に、山家水を 身をかくすみ山のおくのかよひぢをありとなつげそ谷のした水[注釈 132]
2162 岩戸いでし日かげはいまもくもらねばかしこき御代をさぞてらすらん[注釈 133]
2176 君が代にあふもかひあるいとざくらとしのをながくをりてかざさん[注釈 134]
2179 君がためうつしうゑける花なれば千代のみゆきの春もかぎらじ[注釈 135]
新千載和歌集 498 文永二年九月十三夜仙洞五首歌合に、河月を 久方のあまてる月のかつら河秋の今夜の名にながれつつ[注釈 136]
1642 宝治百首歌たてまつりける時、島鶴 白妙の鶴の毛衣きてみればたみのの島に波ぞかけける[注釈 137]
1793 家十首歌に、菊霜 はらひかねわがもとゆひも霜ふりぬ籬の菊の上とみしまに[注釈 138]
1838 返し ふみ分けて猶もつかへよしら雪の跡ある道はむもれはてじを[注釈 139]
新拾遺和歌集 46 いづかたにわかなつむらむ足曳の山さは水は猶こほりつつ[注釈 140]
400 宝治百首歌に、山月 君がすむはこやの山を出づるよりくもらぬ月は空にみえつつ[注釈 141]
410 建長二年八月十五夜鳥羽殿にて、池上月といへることを講ぜられけるにつかうまつりける 秋の月むかしを今にうつしてもややすみまさる宿の池水[注釈 142]
571 宝治二年百首歌たてまつりける時、落葉 冬きてはさゆる嵐の山かぜにつぎて木の葉のふらぬ日はなし[注釈 143]
974 宝治二年百首歌たてまつりける時、寄鳥恋 あし鴨のおりゐる池の水波のたつことやすき我が名なりけり[注釈 144]
1359 数ならぬ身のことわりになぐさめてうきをうらみぬ程ぞへにける[注釈 145]
新後拾遺和歌集 221 をちかへり鳴きふるせども時鳥猶あかなくにけふはくらしつ[注釈 146] 山階入道左大臣
308 題しらず まねくとて行くもとまるもおなじ野に人だのめなる花薄かな[注釈 147]
462 弘安元年亀山殿にて十首歌講ぜられけるに、初冬時雨 袖ぬれし秋の名残もしたはれて時雨を冬とさだめかねつつ[注釈 148] 山階入道前左大臣
1443 西園寺の花をみて 山桜みぬ世の春とうゑおきて袖のみぬらす花の下露[注釈 149]
新続古今和歌集 34 うちきらしふれども雪のかつ消えて都の野辺は春めきにけり[注釈 150]
96 宝治百首歌たてまつりけるに ながむればこぬ人またる春の夜の月こそうたて空だのめなれ[注釈 151]
460 くもりなき月もますみのかがみ山名にあらはれてみゆる夜半かな[注釈 152]
512 宝治百首歌に 風さむきかりほのとまのひまをあらみたれいねがてに山田もるらん[注釈 153]
1027 建長三年九月十三夜影供歌合に、寄煙忍恋 ふじのねにたえぬ煙もこころせよわが下もえの思ひある世に[注釈 154]
1172 宝治百首歌に、寄雲恋 あはれげに心にかかるあま雲のよそにや人を思ひ消えなん[注釈 155]
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連歌

実雄は、准勅撰連歌集『菟玖波集』にも入集している。『菟玖波集』は二条良基撰の二十巻から成る連歌集で、准勅撰連歌集の第一とされる。序文の日付は文和5年(1356年)3月26日であるが、実際の成立は翌延文2年(1357年)春までの間とされる。春上から賀までの部立を18巻とし、巻19を雑体部、巻20を発句部とする構成をとり、以後の連歌集の規範となった。総句数は2146句、作者は約450人に及ぶ[321]

実雄の入集句は10句であり、部類別には春2句・秋2句・恋3句・雑2句・賀1句である[24]

さらに見る 番号, 署名 ...
『菟玖波集』入集一覧
番号[注釈 156] 署名 詞書 前句 実雄句
159 山階入道左大臣 弘長二年八月、院の百韻連歌に 行かへる雲ゐの雁はそれながら[注釈 157]
371 八重たちこめて霞む夕ぐれ[注釈 158] かつ散りにけり山ぶきの花[注釈 159]
593 見て過む野もせの萩の織錦[注釈 160] うつろふ秋を猶ぞうらむる[注釈 161]
716 宝治元年八月十五夜連歌に 里の名もすみうかるべきあたりにて[注釈 162]
1427 つつめども下くぐり行く涙をば[注釈 163] 住吉の松とたのめしかひもなく[注釈 164]
1541 山階入道前左大臣 下帯のめぐりあひてもかひなきに[注釈 165] つもりつもらぬ月日へだてて[注釈 166]
1916 山階入道左大臣 宝治元年八月十五夜、常盤井殿百韻連歌に 水草ゐる野中の清水うつもれて[注釈 167]
2611 宮木引くみほの杣山尋ね来て[注釈 168] ふるや木葉の音ぞ寂しき[注釈 169]
2627 むすべば影のみゆる山水[注釈 170] 初音かたらふ山ほととぎす[注釈 171]
3729 山階入道前左大臣 三たび隣をかへてこそすめ[注釈 172] たがかことよりかけはじめけん[注釈 173]
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家門形成と琵琶相承

「幻の清華家」の成立

鎌倉時代中期の後嵯峨院政期は、公家社会において特定の職能が「家職」として形成され、それに伴う家の分立や対立が進行した時代であった[322]。この時期、西園寺家は公経の孫娘・姞子が生んだ後深草・亀山両天皇が相次いで即位して外戚の地位を得たことで一族が繁栄し、鎌倉中期から室町期にかけて清華家である今出川家(菊亭家)をはじめ、五つの羽林家である正親町家小倉家清水谷家橋本家四辻家(室町家)が次々と分立していくこととなる[323]。外戚として順調な昇進を遂げた実雄は、関東申次を世襲し権勢を振るう西園寺本家と競合・協調しながら、新たに庶流として「洞院家」を興した[322]。洞院家は、のちに一度は清華家としての家格を確立しながらも室町時代に断絶することになる[注釈 174]。この「幻の清華家」も、こうした公家社会および西園寺一門の分立の潮流の中で誕生したのである[68][注釈 175]

皇太子儀礼と琵琶の家業

実雄が創始した洞院家は、本家と同様に、天皇が扱う神聖な楽器である琵琶を家学として継承した。天皇家の分裂が生じる中、琵琶の秘曲伝授は皇位継承の正統性を示す政治的意味も帯びており[325]、実雄自身も建長元年の内裏焼亡に際して琵琶の名器・玄象などを救出する功績を残している。また、琵琶に限らず、実雄は皇太子の音楽儀礼にも関与していた。正嘉3年(1259年)の西園寺一切経供養[326]における御遊では、春宮であった亀山天皇の御笛について、御師匠の粟田口良教が在座しながらも奉仕せず、東宮傅であった実雄が御笛筥蓋を取って献じた[327]。この事例は、貞和2年(1346年)の東宮であった後の崇光天皇の御遊始に際して先例として検討されており、実雄が皇太子の音楽儀礼において重要な役割を担っていたことがうかがえる[注釈 176]。こうした実雄の代からの蓄積により、洞院家の子孫たちは南北朝時代の延文年間に至るまで、天皇に琵琶を奉授する「御師」を務める家格を維持した[329]

しかし時代が下るにつれ、洞院家を含む西園寺一門における琵琶の相承は実技の面で衰退の途を辿る[329]。かつては西園寺家など一族の者が「正式の御師」を務めるのが通例であったが、延文元年(1356年)の後光厳天皇の御琵琶始においては一族から適任者を出せなかった。当時の洞院家当主であった洞院公賢の日記『園太暦』同年11月5日条によれば、公賢は本来であれば西園寺家や洞院家から適任者を出すのが先規であったが、「今はその適任者無し」として、実技の師範家である琵琶西流の藤原孝守藤原孝道の五代後の子孫)を御師範とする案を打診されている[330]

公賢自身も、禁裏の御琵琶始において孝守の父祖が御師を務めた明確な前例はないものの、過去の秘曲伝授の例などを根拠に孝守の起用に同意を示した[注釈 177]

これにより、本家の西園寺実俊があくまで儀式の進行役である「奉行役」に留まる一方、実技の師範家である琵琶西流の藤原孝守が初めて「正式の御師」に選ばれた[329]。このように、最終的には専門の師範家にその地位を譲る過程が確認されるものの、実雄が創始した洞院家は、鎌倉期から南北朝期に至る長きにわたり、本家とともに宮廷音楽の伝承と公家社会において極めて重要な役割を担う一族としての確固たる地位を築いていた。

部類記の編纂

東山御文庫所蔵の『譲位部類記』(勅封157-49)後半部は、後三条天皇の譲位後に行われた諸儀について、藤原為房の日記『為房卿記』を部類したもので、延久4年(1072年)12月16日条から翌年正月30日条までを収める。紙背文書の内容から、寛元4年(1246年)をさほど下らない時期に実雄の手によって編纂されたものと推定されている[333]。この部分は『洞院家廿巻部類』にも収められ、『為房卿記』の日次記の一部としても複数の新写本が伝わるが、東山御文庫本は当該部分について現存する唯一の古写本とみられている。他本にない記述を若干含むほか、新写本にみられる脱文や文章の混乱を訂正できる箇所も少なくないが、東山御文庫本自体にも誤字と考えられる箇所が存在する[334]

後半部の紙背には6点の文書が残されている。⑥は中宮権大進宗経から「大宮大納言」へ、11月23日に行われる五節の淵酔への参仕を求めた書状である。鈴木蒼は、宗経を勧修寺流藤原氏の藤原経賢の子宗経、中宮を後嵯峨天皇の皇后西園寺姞子、「大宮大納言」を姞子の叔父にあたる実雄に比定している[334]。①は「下仕装束」の調進に関する書状で、この場合の下仕は五節舞姫に付き従う女性を指すと考えられる。当時、舞姫の献上担当者は舞姫に関わる物品や用途を負担し、その中には下仕の装束も含まれていた。実雄が五節舞姫の献上を担当した年次との照合から、①と⑥はいずれも寛元4年冬に作成されたものと考えられている[335]。これら6点の紙背文書は、実雄が反古紙として利用したものとみられる[334]

②・④・⑤は番役に勤仕した者の交名で、いずれも折紙である。②・④は中途を、⑤は前後を欠くが、人名の下には昼夜それぞれの上番日数が記されている。記載された人物の多くは衛門尉・兵衛尉・馬允・滝口などの武官で、当時京都で活動していた武士であることから、大番役に関する交名と考えられている。記載人物の活動時期から①・⑥と同じく寛元4年冬のものとみられ、④の「御留守八ヶ日」は、同年11月に後深草天皇大嘗祭のため太政官庁へ行幸した期間を指すと推定されている。また、この年には寛元の政変によって九条頼経が鎌倉から帰洛しており、交名には頼経の近習とみられる人物も含まれる[336]。これらの文書が実雄のもとに残された経緯は明らかでないが、兄の西園寺実氏が同年8月から関東申次となっていたこととの関係が一つの可能性として示されている[336]

③は丹後国大内郷の住人である僧快詮が、「貞末男」の不法を訴え、代官によって没収された自らの身代について裁定の撤回を求めた愁状である。大内郷は八条院領の荘園として成立し、当時も女房を預所としていた。この文書が実雄のもとに残されたことから、実雄または西園寺家と預所との間に何らかの関係があった可能性が考えられているが、その具体的な関係は明らかでない[336]

後世の評価と受容

関白流神道における相伝の疑義

高野山大学図書館所蔵(三宝院寄託)の『日本記一流大事』「日本記相伝」によれば、両部神道の一派である「関白流神道」の相伝系譜において、始祖である二条殿(二条関白)に次ぐ二代目として「実雄左大臣」の名が挙げられている[337]。ただし、この相伝については、史実との整合性をめぐって以下のような疑義が指摘されている。

  1. 家系の不一致
    実雄は西園寺一流に属する洞院家の出身であり、始祖とされる二条家の系統ではない[337]
  2. 時代背景と系譜の不自然さ
    始祖の「二条関白」が実雄とほぼ同年代の二条良実(1216年 - 1270年)を指すとすれば、同時代の公卿を相伝の直系に位置づけることは不自然である。一方、もし藤原師通(1062年 - 1099年)を指すのであれば、実雄との間には100年以上の隔たりがあり、系譜上の空白が説明できない。
  3. 次代の不在
    実雄の次代として記される「国久之中将」については、該当する実在の人物が歴史上確認されていない[338]

関白流神道は、室町時代には相承の事実が確認できるものの、江戸時代以降は独立した流派としては存続せず、御流神道などに吸収されたと考えられている[338]。以上の点から、この系譜における実雄の名は、後世に流派の正統性を補強するために仮託された可能性が高いとみられている。

『徒然草』「洞院左大臣」の比定をめぐる議論

『徒然草』第83段には、「竹林院入道左大臣」が太政大臣への昇進を辞退して出家したのを聞き、「洞院左大臣」もそれに甘心して太政大臣への望みを絶ったという逸話が記されている。同段では続けて、「月は満ちれば欠け、物は盛りを極めれば衰える」という「盛者必衰」の理や、「昇りつめた竜には下るほかない悔いがある」という「亢龍有悔」の思想が説かれており、彼らの昇進断念は、頂点を極めることによる破綻を避けるための処世として描かれている。

江戸時代の国学者・天野信景は、随筆『塩尻』巻5において、この「竹林院入道左大臣」を西園寺公衡、「洞院左大臣」を実雄に比定した[339]。近代以降も内海弘蔵氏が『徒然草評釈』で、斎藤清衛氏が『徒然草の新しい解釈』で同様に実雄説を支持している[340]

しかし、『公卿補任』などの記録によれば、西園寺公衡が左大臣に就任・辞任したのは延慶2年(1309年)であり、出家したのは応長元年(1311年)である。この時期、実雄の孫にあたる洞院実泰が大納言の地位にあった一方で、実雄自身は公衡が元服する前の文永10年(1273年)に既に薨去していた。したがって、実雄が公衡の言葉を聞いて昇進を断念したとする解釈は年代的に成立しない。そのため、武田祐吉氏ら多くの学者が指摘するように、「洞院左大臣」は洞院実雄ではなく、洞院実泰と見なすのが妥当である[340]

なお、信景は『塩尻』において、当時の西園寺家が北条氏との親密な関係を背景に官位を壟断していたことを指摘し、「承久の乱以後は王権が衰え、一度王道を天下に敷く志もなく、仏門に入って現実逃避したのは実に愚かしい」と、公衡やそれに同調したとされる洞院左大臣の姿勢を厳しく批判している[339][注釈 178]

大炊御門富小路邸の興衰

実雄は山科盆地を望む風光明媚な地に「山科山荘」を営んでおり[341][342]、これにちなんで「山科左府」と称された[注釈 179]。文永9年(1272年)に薨去した洞院佶子の葬送もこの山荘で行われている[343]。また、洛中においては邸宅を構え、その官職と大炊御門通に面した所在地から「大炊御門大納言」と呼称されることもあった[111]。この邸宅の具体的な所在が「大炊御門富小路」であったことは、『増鏡』において邸宅を継承した次男の公雄が「富小路三位中将」(巻第8「あすか川」)と称されていることや、孫の実泰の居所が「大炊御門富小路の御家」(巻第13「秋のみ山」)[344]と記されていることから考証されている[345]。この大炊御門富小路邸(大炊御門亭)は、実雄の造営以来、洞院家の本拠として歴代にわたり相伝されることとなる[345]

大炊御門富小路邸の相伝

大炊御門邸は実雄の没後、前述の「富小路三位中将」こと小倉公雄が継承し、その後は公雄の弟である公守、さらにその子・実泰へと受け継がれた[345]。正中元年(1324年)頃には左大臣であった実泰が主として居住しており、元弘元年(1331年)に光厳天皇が二条富小路皇居へ遷幸した際には、近くにあった実泰の子・公賢の門前に御車が立てられる[346][347]など、洞院家の重要拠点として機能していた。実泰の没後、邸宅は一時嫡男の公賢が伝領したが、最終的には、公賢の弟であり養子でもあった実守へと譲り渡された[348]

南北朝期の困窮と邸宅喪失

しかし、南北朝の動乱期に至ると、大炊御門邸は一族の困窮とともに終焉を迎えることとなる[349]。文和2年(1353年)2月22日、窮乏に直面した実守は、公賢の子・実夏の家司を務める粟田光仲の兄弟である光種[注釈 180]を使者として公賢のもとへ遣わした[350]。当時の実守は相伝の林田庄を横領され、長岡庄は戦場と化し、馬寮領の葛村からも年貢が滞るなど、収入が絶たれて餓死寸前の状態にあった[351]。邸宅の維持管理も困難となっており、すでに車宿や念誦堂、対屋などの付属建物は次第に破損・散逸し、わずかに寝殿と檜皮葺の棟門が残るのみであった[352]。実守は、この残存する建物を寺に施入して当座の飢えを凌ぎたいと公賢に愁訴したのである[353]

当時の公賢自身も妻子を養うことすら事欠く状態にあり、実守を援助する余力は残されていなかった[354]。公賢は、実雄以来三、四代にわたって相伝されてきた由緒ある邸宅が他人の手に渡ることを痛恨の極みとしつつも[355]、同月24日、日記に重ねて「口惜事也」と記して無念を述べ、最終的に実守の任意の処分に任せる旨を伝えた[356]。公賢は、実雄から受け継がれた邸宅の喪失と一族の没落を、祖神や三宝の加被もない「宿業」の致すところとして記している[357]。これにより、実雄が造営し、以後三、四代にわたって洞院家に相伝されてきた大炊御門富小路邸は、実守の処分によって同家の手を離れることとなった。

日記

山階左相府記(やましなさしょうふき)は、鎌倉時代の公卿・洞院実雄の日記である[12][13]。まとまった形での伝本は現存せず、複数の書物や記録に引用された逸文として伝わっている。

後世の記録や部類記では、「実雄公記」(さねおこうき)、「権大納言実雄卿記」(ごんだいなごんさねおきょうき)、「山階左府御記」(やましなさふぎょき)などの名称で引用される。また、実雄から8代後の子孫にあたる洞院実熙の著書『行類抄』では、仁治2年(1241年)10月1日の二孟平座の記事が「階御記」(しなぎょき)、仁治4年(1243年)2月26日の寛元改元定の記事が「階相記」(しなしょうき)として引用されるほか、「階相」(しなしょう)または「」(しな)と略記して先例を掲げる例もみられる[注釈 181]。書誌類でも、『群書解題』第11巻は「山階左相府記」の項を立て、別称として「階記」(しなき)を挙げている[12][注釈 182]。さらに、『御禊行幸服飾部類』に引用された逸文では、「山御記」(やまぎょき)と記されている。

現存の概覧

現在確認されている、実雄に帰属する日記・記録の現存逸文は以下の通りである。

さらに見る 和暦(西暦), 月日(旧暦) ...
和暦(西暦) 月日(旧暦) 年齢[注釈 183] 内容 備考
嘉禎4年(1238年) 11月23日 20歳 改元の議定に公卿として参列した。実雄は秉燭の頃に束帯を着用して陣へ参り、文章博士らの提出した勘文が回覧された後、年号案として「延仁」と「暦仁」の二案を推挙した。議定では、「暦」の字を「日」、「仁」の字を「二」と解して「日二」となり、「天に二日なし」の道理に反するとの難が示された。これに対し実雄は日記中で、過去の年号「天仁」も「仁」を「二」と「人」に分解すれば「天二人」となり、その難は「日二」よりも重大であるはずだが、すでに吉例として用いられていると指摘した。そのため、「天仁」を准拠とすれば「暦仁」も退けるには及ばないとの見解を記している。最終的に「暦仁」と定められた後、実雄は退出した[358] 『改元部類記』に「愚暦」の名で抄出された日記逸文である。実雄は、この改元定が風雨や天変などによるものかと推測している。
仁治2年(1241年) 10月1日 23歳 二孟平座に関する記録である。上卿は西園寺公基で、少納言が不参であったため、蔵人弁・定頼が召されて見参目録を受けた。実雄は束帯を着用したが、白重は着けず、無文帯・蒔絵剣を用いた。また、五位職事による仰詞、宜陽殿座への着座、大弁の座次、一献・二献における弁の勧盃、少納言不参により三献に及ばなかったことなどが記されている[359] 『行類抄』二孟平座に「階御記」「階相」「階」として分散して引用された逸文である。「仁治二十一」は仁治2年10月1日の略記とみられる。「階相」は山階左相府、すなわち実雄を指す呼称と考えられるため、実雄の日記逸文として扱う。
仁治3年(1242年) 10月21日 24歳 実雄が供奉した際の装束・随従・馬具に関する記録である。螺鈿剣・有文帯を用いたこと、馬副8人を具したこと、雑色は召し具さず、雲珠・頸総などの馬具を馬副に持たせたこと、また馬に厭気の様子があったため銀面も持たせたことが記されている[360] 『御禊行幸服飾部類』に「山御記」として引用された逸文である。供奉時の服飾・馬具・従者構成を具体的に示す記録である。
仁治4年(1243年) 2月26日 25歳 寛元改元の定に関する記録である。文章博士の勘文を誰から読み申すべきかについて先例不同とされたこと、右大臣・一条実経が一上として関与したこと、左大弁・広橋経光が勘文を読み申したこと、また初参の参議であった経光が発語したことなどが記されている[361] 『行類抄』臨時部改元定に「階相記」として引用された逸文である。仁治4年2月26日は寛元への改元日であり、実雄の日記に基づく改元定の先例記事として引用されている。
寛元元年(1243年) 10月1日 25歳 二孟平座における宜陽殿掌燈の史役に関する記録である。実雄が昏に及んで参上したところ、上卿から掌燈を命じられたが、史と内竪との間で役をめぐる相論が数刻に及び、最終的に史がこれを勤めたことが記されている[362] 『行類抄』二孟平座の「宜陽殿掌燈史役例」に「階相」として引用された逸文である。儀式における掌燈役の分担を示す先例として採録されている。
寛元4年(1246年) 4月1日 28歳 二孟平座に関する記録である。実雄は束帯を着用したが白重は着けず、奥座に着いた。里内裏に宜陽殿がなかったため、陣を宜陽殿に擬して饌を据え、その間に公卿が起座・徘徊したこと、実雄が官人を召して陣軾を敷かせたこと、外記の持参した見参を座上で見たこと、少納言・高長が初献を勤め、二献では居汁が出され、二献・三献では弁が勧盃したことなどが記されている[363] 『行類抄』二孟平座に「階相記」または「階相」として引用された逸文である。里内裏において宜陽殿を欠く場合の二孟平座の運用、座次、勧盃、居汁の作法などを示す先例として採録されている。
寛元4年(1246年) 4月29日 28歳 後嵯峨上皇の賀茂社御幸に関する記録である。実雄は御装束に候し、御幸の儀が石清水八幡宮御幸に準じて行われたこと、供奉の者が八幡宮御幸の例を通用したこと、花山院定雅が加わったこと、還御の際に一条京極辺で松明を取ったことなどを記している。 『賀茂御幸記』異本に「階御記」として収められる逸文である。宮内庁書陵部所蔵の葉室本『賀茂御幸記』および柳原本『賀茂御幸部類記』には、群書類従本所載の「経俊卿記」寛元4年4月29日条の前に、実雄の日記である「階御記」同日条が収められている[364]。このため、本条は後嵯峨上皇の賀茂社御幸に関する部類記に取り込まれた実雄の日記逸文とみられる。ただし、『賀茂御幸記』は後代に成立した部類記からの転写とされるため、実雄自筆本または原本からの直接の伝本ではない。
寛元5年(1247年) 7月24日 29歳 西園寺姞子が皇子女(後の綜子内親王)の出産のため今出川第へ行啓した際の様子を記す。同年9月が出産の予定月とされていたため、7月中に院の殿上において七夜の儀に関する雑事定が行われ、例文が読み上げられたことなどが記録されている[365] 実雄が皇子女の出産に伴う儀礼の準備に関与していたことを示す記録である。
寛元5年(1247年) 9月9日 29歳 二孟平座中の献盃に関する記録である。権右中弁・藤原親頼、左少弁・平時継、少納言・菅原長明が関与し、三献が行われ、四位の者がいる場合には上臈から勤める例であったことが記されている[366] 『行類抄』二孟平座中に「階相」として引用された逸文である。献盃の担当順序、とくに四位の者がいる場合に上臈から勤める例を示す先例として採録されている。
正嘉2年(1258年) 11月(日次不明) 40歳 実雄の右大臣・東宮傅任官に伴う拝賀の次第を記す。後嵯峨院および東宮への申慶や、後嵯峨上皇の使者である中御門経任を介した伝達のほか、東宮における御馬の下賜をめぐって先例が検討されている。その際、東宮における引御馬の先例として、仁安元年(1166年)に春宮大夫在任中の平清盛が内大臣に任じられた際の拝賀、および建仁2年(1202年)に春宮大夫在任中の花山院忠経が右近衛大将を兼ねた際の拝賀が参照されている[注釈 184]。また、実雄自身も、御馬が引かれなければ面目が立たないと考え、引御馬の実施を重視していたことがうかがえる。 外題は『実雄卿記』。題簽には「(首欠)正嘉二、十一、任大臣東宮傅拝賀記」とある。首部を欠くため、具体的な日次は不明である。
正元元年(1259年) 8月26日 41歳 28日に予定されていた元服の儀に備え、後の亀山天皇となる東宮・恒仁親王が、後深草天皇の皇居となっていた五条大宮の内裏へ入内した。実雄は秉燭の頃に束帯を着用して参上し、まず咳病中の後嵯峨上皇を見舞った。上皇からは、元服後の東宮との拝覲について相談を受けたほか、病気のため元服に関する沙汰が十分に定まっていないことから、諸事をよく取り計らうよう命じられた。実雄はその後、東宮の入内に随行し、徒歩で御裾を取り、御車の乗降に際して御剣・「壺切」を受け取って車内に納めるなどの役を務めた。入内後には南殿の様子を確認し、翌夜の習礼および28日の元服に用いる装束などについて協議した[370] 正元元年8月の東宮元服および習礼に関する一連の記事は、宮内庁書陵部所蔵『諸記録抄出』第79冊、『礼儀類典』巻333、『続群書類従』巻295所収『正元元年東宮御元服部類記』、伏見宮旧蔵『東宮御元服部類記』などに収められている。
8月27日 後嵯峨上皇の使者である中御門経任を通じて、翌日の元服および同日夜の習礼について打ち合わせが行われた。実雄は、歴代の習礼はいずれも夜間に行われているため、時刻を早める必要はないと上奏した。また、応和3年(963年)の憲平親王(後の冷泉天皇)、寛仁3年(1019年)の敦良親王(後の後朱雀天皇)、永承元年(1046年)の尊仁親王(後の後三条天皇)の元服例を参照し、太子代・加冠代・理髪代を置く習礼の形式について意見を述べた。さらに、翌日の公卿謝酒における空盞役について、身分の上下にかかわらず先例では春宮権亮が務めているとして、春宮亮の平成俊ではなく春宮権亮の堀川具守が務めるべきであると主張した。これに対し、習礼の時刻は秉燭と定められ、空盞役も本来は春宮権亮が務めるべきものとされたが、具守が幼少で勤仕が難しいため、今回は春宮亮の平成俊に務めさせることが許された。一方、実雄が旧例を挙げて提案した習礼の具体的な形式については、明確な仰せがなかった。同日夜、実雄は五条大宮へ参内し、南殿に設けられた天皇・東宮の御座、加冠役・理髪役などの座の位置を確認した。その後、後深草天皇と東宮が出御し、関白の鷹司兼平が天皇の後方に控える中、太子代の資平朝臣、理髪代の日野資宣、加冠代の持明院相保らが所定の位置につく形で習礼が行われた。ただし、この日の習礼は各役が位置を確認する程度の略式のもので、実際の作法を一通り演じるまでには至らなかった[371] 翌28日に南殿で行われた正式な元服の儀では、実雄が東宮傅として加冠役を務めたことが『御遊抄』に記録されている。
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年代的な齟齬が見られる伝本

実雄の没年である文永10年(1273年)以降の出来事を、『山階左相府記』『実雄公記』『山御記』など実雄に関係する記録名で伝える文献の一覧である。これらは年代上、実雄本人の日記とは一致しないため、後世の編纂・抄出・収蔵の過程で、洞院家関係者や同族、あるいは別系統の記録が実雄の日記に混入した可能性がある。

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和暦(西暦) 月日(旧暦) 記述内容 備考
文永11年(1274年) 10月22日 御禊または行幸に関する服飾・装束の記録である。二条師忠が蒲萄染の下襲を着用したことが記される。また、記主自身も午刻頃に装束を着け、有文帯・飾剣・魚袋を用いたうえで官司に参じたこと、さらに毛車、雑色長侍、諸大夫の布衣、細鞦の使用など、供奉に伴う装束・車馬の次第が見える[372] 実雄の没後にあたる文永11年の記事であるため、実雄本人の日記としては年代が合わない。『御禊行幸服飾部類』では「山御記」として引用されている。
弘安11年(1288年) 1月1日 1月1日の四方拝、小朝拝、節会の記録がみられる。 伏見宮旧蔵『山階入道左府実雄公記』に収められている。
1月3日 殿上淵酔を延引するとの記事がみられる。
正応2年(1289年) 1月1日 1月1日の小朝拝、節会の記録がみられる。
嘉元3年(1305年) 7月10日 - 7月13日 嘉元2年の後深草院の崩御に伴う仏事の記録とみられる記述が収められている。 広瀬進一氏旧蔵『後深草院御仏事記』に「山階左府実雄公記(嘉元3年7月、自10日至13日)」の別題として所収。
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系譜

以下、特に注記のない限り、『尊卑分脈』による[373]

脚注

参考文献

関連項目

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