津下紋太郎
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岡山県平民・津下豊次郎の長男[1]。1921年、家督を相続する[3]。1885年に亀山昇の紹介で同志社普通学校に入学し、1893年に同志社神学校を卒業[4]。
1884年に岡山でオティス・ケーリから洗礼を受ける[5]。奈良県吉野の山林地主・土倉庄三郎の子・龍次郎が同志社の同窓だった関係で、1899年に土倉家の台湾事業総支配人となり、山林開墾、樟脳の生産などの事業に携わる[2]。
諸会社の重役で、満洲国財政顧問を兼ねる[3]。カルピス製造社長、鶴見臨港鉄道、日本石油、日本コンクリートポール、帝国ニューヒューム鋼管各取締役、北樺太石油監査役などをつとめる[3]。
1919年に同志社理事となり、海老名弾正の総長就任に最後まで反対した。1928年の有終館出火事件後には西村金三郎らとともに海老名の追い落としと大工原銀太郎(前九州帝大総長)の擁立を画策した[6]。
