津村諭吉
From Wikipedia, the free encyclopedia
平明丸事件
陸軍士官学校を14期生で卒業後、中央幼年学校本科区隊長に赴任。教え子に土橋勇逸がいる。間もなく陸大に入学[3]。卒業後、陸軍運輸部に勤務。
ロシア帝国によって第一次世界大戦中に捕虜とされ、シベリアの収容所に拘束されていた兵士およびその家族からなる1012人のトルコ人捕虜は、1918年、白軍を支援するため同地域に進出した大日本帝国陸軍によって保護された。
1921年2月、他の連合国からの要請がなかったにもかかわらず、大日本帝国はオスマン帝国の外交的働きかけもあり、これらの捕虜をイスタンブール政府へ引き渡すことを決定した。
1921年2月末にウラジオストクを出発した平明丸は、4月3日にスエズ運河を通過して地中海に到達した。4月5日、ダーダネルス海峡へ向かう途中、レスボス島沖でギリシャ王国海軍によって停船させられた。
当時アナトリアで戦争状態にあったことを理由に、ギリシャ王国は、たとえイスタンブール政府への引き渡しであっても捕虜の移送を認めないとし、津村に対して捕虜をギリシャ王国へ引き渡すよう要求した。
津村は、捕虜は大日本帝国の保護下にあると主張し、この要求を拒否したとされる[5]。
その後、平明丸はギリシャ王国によってピレウス港へ曳航され、約6か月間停泊を余儀なくされた。補給が制限される中で船内の状況は悪化し、仲裁に入った国際連盟は女性と子どもの解放を求めた。その結果、船内にいた395人の女性と子どもがギリシャ船「オリンポス号」によりイスタンブールへ移送されたとされる[5]。
この間、大日本帝国はギリシャ王国との交渉を行い、船の解放を求めたが合意に至らず、さらにイギリス帝国およびフランス第三共和政を通じた調整も試みられたが、解決には至らなかった。
最終的に、イタリア王国の仲裁案が受け入れられ、ギリシャ王国は船を解放し、大日本帝国は捕虜をイスタンブール政府ではなくイタリア王国へ引き渡した。捕虜はアシナーラ島の収容所に移送された。
その後、捕虜は約7か月間同地に留め置かれたのち、イスタンブール政府が連合国に対して「捕虜を軍に編入しない」と保証したことにより、1922年5月にトルコ船「ウミット号」によってイスタンブールへ送還されたとされる[5]。
帰国後
帰国後は1924年4月に大佐で予備役編入[6]。その後は広島市宇品にて運送会社の設立に名を連ねるが[7]、以降の足取りは不明であり、2010年代以降、日本・トルコ外交関係樹立に向けた記念事業の一環として、外務省や駐トルコ日本大使館、有志の研究者らによって日本国内での足跡(親族の所在や墓所)の捜索が行われたが、2024年の外交樹立100周年時点においても、没年月日を特定する公的資料や存命の親族は発見されていない。[要出典]
津村の没年については、平明丸事件当時の階級(中佐)から推測される年齢に基づき、昭和中期頃に没したとする説がある。また、一部の海外資料には1927年没とする記載も見られるが、いずれも日本国内の戸籍や軍歴抹消記録による裏付けは取れておらず、詳細は不明である。[8]。