洪経綸
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監察御史の洪子輿の子として生まれた。建中2年(781年)、河北黜陟使となった。経綸が東都洛陽に到着すると、魏博節度使の田悦に兵7万人を養う食糧について相談された。経綸はもともと時機を認識していなかったため、まず符によりその兵4万人を帰農させることにした。田悦は偽って命に従い、符のとおりにかれらを罷免した。辞めさせられた兵士を集めて、「おまえたちは軍旅にあり、おのおの父母妻子があるというのに、河北黜陟使により辞めさせられ、どうやって衣食を得たらいいのか」と激怒し、大泣きしてみせた。田悦は家財を供出して衣服をかれらに給与し、各自をその部隊に帰させると、軍の士心を反乱へと固めさせることに成功した。このため経綸は職から罷免されると、宣歙観察使に転じた。建中4年(783年)、朱泚が反乱を起こすと、経綸は朱泚から太常寺少卿に任じられた[1]。興元元年(784年)、李晟らが朱泚を破ると、経綸は李忠臣・張光晟・蔣鎮・喬琳・崔宣らとともに斬られた[2]。