浅野総一郎の銅像

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帽子をかぶり、右手に杖、左手に丸めた書類を持つ浅野総一郎の銅像
浅野学園に立つ浅野総一郎の銅像

浅野総一郎の銅像(あさのそういちろうのどうぞう)は、1924年(大正13年)に浅野財閥が浅野綜合中学校(現浅野学園)キャンパスの銅像山に建立した巨大な銅像である。戦時中に供出されたが、戦後の1958年(昭和33年)に復元された。

浅野財閥では、浅野総一郎を記念して何か残そうと考えていた。浅野綜合中学校(浅野学園)を拡張する案や、図書館を建設する案もあったが、橋本梅太郎は銅像がいいと考えた。財閥総帥の浅野総一郎は老齢になってからも、ヨレヨレの服と半ズボンにつぎはぎだらけの脚絆で、帽子を被り杖をついて、工事現場を視察し、工場で在庫を確認していた[1][2]。それに敬服していたので、浅野総一郎の姿を銅像で後世に伝えようと思ったのである。橋本は銅像建設会の委員長となって尽力し、一人20銭の寄付を25万人から集め、渋沢栄一に建設会会長に就任してもらい、銅像制作を本山白雲に依頼した。1923年(大正12年)7月に原型が出来たが、浅野総一郎の夫人サクがそれを見て、眉間のコブが再現されているのに文句をつけたので、橋本がコブを取るように本山に求めた。すると、忠実に再現しろとの注文だったのに、今になってコブをなくせとは納得できないと言って、本山は承知しない。板挟みになった橋本が、浅野総一郎に相談したところ、芸術家の意思を尊重すべきだと浅野は答えた。また、台座に刻む頌徳文は徳富蘇峰に依頼したのだが、その「浅野総一郎翁」という文言の「翁」が年寄り風で気に食わないから無くせと、浅野がクレームを出した。橋本がそう伝えると、「翁」は老人ではなく先輩を意味し、文格のためにどうしても「翁」の文字を用いなければならないと、徳富が答えた。橋本が恐る恐る浅野に説明すると、浅野が納得して収まった。浅野財閥の会社・銀行・ホテル・病院・学校・取引先の人たちや徳川家達大隈重信など25万人が一人20銭づつ銅像建設費を寄付したのだが、その全員の氏名を土台の周りの銅版に刻んだ[1][2]。小さな五号活字で刻んだので読むのに虫眼鏡が必要だった[3]。土台周囲の太い鎖は、浅野総一郎が建造させた豪華船地洋丸の錨鎖である[4]浅野財閥傘下の二社、東京湾埋立(東亜建設工業)が土木工事をし、浅野セメントの鉄筋コンクリート部が台座・土留・下水溝を工事した。1923年(大正12年)7月に土木工事が完成したが、9月に関東大震災で軽い被害を受けた。完成した銅像を丘の上の台座に運びあげようとしたが、大きく重い銅像を運ぶには、丘の上に続く道に本格的な補強工事をしなければならないということが解った。もう除幕式が迫っていて、そんな時間がなかったので、仕方なく銅像を三分割して、運び上げてから溶接して設置した[1]

除幕式

浅野総一郎が喜寿になった1924年(大正13年)の、5月18日午前10時半から12時半まで銅像の除幕式が行われた。参加者は浅野財閥の会社・病院・学校の関係者およそ五千人とも三万人とも伝わる。橋本梅太郎が開会の挨拶をして、井上孝哉大谷嘉兵衛前田利為野田卯太郎逓信大臣藤山雷太後藤新平渋沢栄一阿部吾市大川平三郎が祝辞を述べてから、孫の浅野一治が除幕した[3][1][5]。ヨレヨレの服と半ズボンにつぎはぎだらけの脚絆で帽子を被り杖をついた浅野総一郎の姿を写した、高さ16尺(約4.8メートル)の巨大な銅像が大きく高い土台と台座の上にそびえ立っていた[1][2]。浅野総一郎が謝辞を述べた後で、午後5時まで、模擬店や神楽相撲などの競技、陸軍戸山学校軍楽隊東洋汽船楽団の演奏、花火が行われ、勝飛行場の飛行機が低空でビラを撒いた。ビラには浅野総一郎の座右の銘「かせぐに追ひつく貧乏無し」が印刷されていた[3][1][5]。この日以降、銅像がある丘は、「銅像山」と呼ばれた[6]

戦時中に供出

戦後に復元

脚注

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