浅野財閥では、財閥本社や傘下企業本社が入る自社ビルを持たず、東京海上ビル旧館と新館や横浜正金銀行丸の内支店ビルをはじめ、その他あちこちのビルに賃貸で入っていた[1][2][3]。そのために相互の連絡が不便だったので、自社ビルを建設しようとしていた。大正時代前期には西紺屋町や日本橋角や丸の内を検討した。大正時代後期から1935年(昭和10年)頃は不況のせいで中断したが、1936年(昭和11年)から再開して、6月には有楽町駅前を検討したものの、道路の幅が問題になった。7月には東京憲兵隊の跡地を検討し、1937年(昭和12年)4月にその跡地の南側麹町区丸の内一丁目十番地の四の1200坪を払下げしてもらった。皇居のお濠に面し帝室林野局に隣接する一等地だった。さっそく建設工事を始めようとした時に、日中戦争が勃発したので計画を延期したものの、軍需景気によって浅野財閥はますます繁栄したので、建設の機運が一層高まった。1938年(昭和13年)4月に橋本梅太郎が建築実行委員長になり、6月末に建設趣意書を発表し、傘下企業に株式会社浅野ビルデイングに出資するよう促して、一部資金も調達した。その趣意書によれば、浅野財閥ビルの概要は以下の通り[2]。
位置 麹町区丸の内一丁目十番地四
敷地面積 1200坪
建築面積 約887坪
延面積 約7391坪
主体 鉄骨、鉄筋コンクリート耐震耐火構造
仕上 外装、花崗石積および疑花崗石張り
階数 地下二階、地上六階
軒高 地盤からパラペット上端まで85尺(約25.7メートル)
様式 近世復興式[2]
ところが日中戦争の進展によって経済統制が強化されて、着工できないまま、1938年(昭和13年)10月に、橋本梅太郎が急死してしまった。そこで関毅が新たな責任者になって、経済統制に対応した木造ビルの建設に変更した[2]。だが1939年(昭和14年)の11月3日に東京湾埋立会社(東亜建設工業)祝賀会の最中に急逝した[4][5]。また同年の5月には財閥本社である浅野同族会社が納税できずに解散した[6]。結局、浅野財閥ビルは建設されなかった。