浅野邦子

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浅野 邦子(あさの くにこ、1946年昭和21年〉10月28日 - 2023年令和5年〉2月9日)は、日本の実業家。株式会社箔一創業者・代表取締役会長、一般社団法人日本経済団体連合会審議委員会副議長などを歴任。日本で初めて金沢箔工芸品を作り、金箔打紙製法あぶらとり紙を開発、食用や美容分野、建築装飾などへも金沢箔の用途を広げ、金箔金沢市を代表する文化・産業に育てた。2018年旭日単光章受賞。

京都市に生まれる。父は地方公務員で、母は専業主婦であった。邦子は四姉妹の次女として育てられる。高校を卒業後、京都の金属箔を扱う商社に就職。この時、金沢から出張に来ていた金沢箔を製造する浅野製箔の浅野志津雄に見初められ、求婚を受ける[1]

金沢へ

浅野家へ嫁いだ邦子は、石川県金沢市へと移った。一男一女に恵まれ、幸せな暮らしを送っていたが1973年オイルショックに端を発した不況で、夫の製箔業は苦境に陥る。そもそも、当時の金沢箔は極めて厳しい状況にあった。かつて金沢箔は金属加飾の大部分を担っていたが、「真空蒸着法(いわゆる金メッキ)」が開発されると、多くのシェアを工業的な手法に奪われた。一部に残った仏壇仏具や工芸品の加飾といった限られた需要に頼って、細々と維持しているのが現状だった。その仏壇仏具もオイルショックの不況で全く売れなくなったことで、金沢箔の業界は、瀕死の状況へと追いやられる[2]

金沢箔工芸品の開発

苦しむ夫を見て邦子は一計を案じる。金沢箔の用途を広げるために、日常使うような食器やインテリア用品に金沢箔をあしらい「金沢箔工芸品」と名付けて売り出した。当初は業界内部からの反発や、知名度の無さからくる営業不振などで苦労するが、やがて百貨店での催事をきっかけに販売が軌道に乗りはじめ、事業が拡大していく[3]

金箔打紙製法あぶらとり紙の開発

金沢箔業界最大のヒットともいえるのが「金箔打紙製法あぶらとり紙」の開発である。金沢市の箔打ちの最大の特徴は和紙を用いることにある。和紙に金や銀などの金属片を挟んでハンマーで打ちつけると、和紙の伸縮力によって金属を水平方向に延ばすことができる。この和紙を「箔打ち紙」と言い、柿渋や卵白、灰汁に浸すなどして半年ほどかけて作られる。この和紙は、長期間箔打ちに用いられていると、やがて伸縮する力が弱くなって使用期限を終える。この使い古した和紙は、表面が極めて艶やかになっており、肌につけると皮脂をよく吸い取る性質があった。このことから、「あぶらとり紙」として再利用されていた。この「あぶらとり紙」は京都の芸子や役者に人気で、需要があることはわかっていたが、大変に希少なものであり、仕入れるのは困難だった。「無いのなら、自分で作ってしまえばいい」。そう考えた邦子は、自ら和紙を仕入れて箔打ちと同じ要領で打ち、やがて安定的な生産方法を開発する。1976年に「金箔打紙製法あぶらとり紙」として発売すると大ヒットとなり、日本中のメーカーからのOEM製造を請け負うなど、金沢箔業界を支える商品へと成長した[4]

食用金箔の開発

邦子は、1987年に「料理用金箔」を発売する。箔を食用に使う習慣は古くからあり、奈良時代の文献には薬用とされた記録が残っている[5]。箔業界では、金箔を四角く切り揃える際にできる端切れを、慶事の際に日本酒に浮かべることはあったが、明確に食用と位置付けられた金箔商品はこれが初めてであった[5]。その後、需要の高まりをとらえ2005年にはHACCP(危害要因分析重要管理点)に対応した、箔食材専門工場を建設する。

経団連理事

2016年には一般社団法人日本経済団体連合会審議委員会副議長に就任する。経団連の歴史のなかでも女性理事は史上二人目、中小企業経営者としては史上初であった[6]。当時、経団連会長として異例の人事を断行した榊原定征日本野球機構コミッショナー)は「女性の創業経営者として、また地域活性化委や中小企業振興の担い手として、経団連に新風を吹き込むことに期待」[7]と語っている。1500もの大企業の会長や社長のなかで異色の存在であったが、地方の目線、女性の目線から日本の経済界を変えるべく積極的な発言を行った。

後進の育成

自らが女性起業家として苦労をしてきた経験から、将来を担う自立した女性経営者が互いに研鑽しあう場の創出を目的に1993年に5名の会員で勉強会を始める。その後金澤レディースベンチャークラブ、金澤レディース経政会と名称を変更し、2022年4月より一般社団法人化となった。2026年3月では、41名の会員が活動を続けている[8]

受章

闘病・逝去

脚注

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