浙贛作戦
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浙贛作戦(せっかんさくせん)は、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)5月から9月まで中華民国の浙江省、江西省などで行われた日本軍の作戦。「浙」は浙江省、「贛」は江西省を指す。
| 浙贛作戦 | |
|---|---|
八九式重擲弾筒を使用する日本兵 (1942年5月30日) | |
| 戦争:日中戦争(太平洋戦争) | |
| 年月日:1942年5月15日 - 9月6日 | |
| 場所: | |
| 結果:日本軍の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| 指導者・指揮官 | |
| 戦力 | |
| 第11軍 第13軍 第1飛行団 第一遣支艦隊 兵力18万人 |
第3戦区軍 第9戦区軍 兵力約32万人 |
| 損害 | |
| 死傷:3万6000人 | 死傷:約7万人 |
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背景
参加兵力
経過
1942年(昭和17年)4月初旬、もとより第13軍は寧国、広徳方面への進攻作戦(十九号作戦)を計画しており25日から実行に移す予定だった。ところが、18日にドーリットル空襲が発生。21日に大本営より「浙江州ノ飛行場群爆砕作戦ハ極メテ急ヲ要スルモノ」という電報を受け、予定されていた作戦を中止して浙江方面の航空基地覆滅作戦(浙江作戦、「せ」号作戦)の実施要請が下る[7][8]。第13軍は5月15日から作戦を実施、第11軍は5月末から策応作戦を開始することになった[9]。
大本営は支那派遣軍の航空戦力を増強することを4月20日に決定[10]し、4月26日には第23軍と第一飛行団に「せ」号航空作戦命令を下達した[11]。第一飛行団は29日から衢州、玉山、麗水、吉安、建昌などの飛行場を攻撃した[12]。第一飛行団はこのあとも攻撃を継続し、金華、蘭渓、衢州、麗水の攻略に協力した[13]。
同時期、海軍においても「せ」号作戦が命ぜられ、第一遣支艦隊が浙江省沿岸部にて陽動や水路啓開を行い輸送などに協力した[14]。
5月15日、第13軍は杭州と寧波の間に部隊を展開、浙贛線沿線を西進し始めた。作戦は急速に進捗し、6月14日までに蘭渓、金華、衢州、玉山、広豊、広信を占領した[15][16]。5月31日には第11軍が南昌方面より策応作戦を開始し、6月16日までに撫州、建昌、鷹潭、貴渓を占領した[17][18]。
このころより作戦規模が拡大する[19]。また麗水作戦、浙贛線打通作戦、温州作戦が企図され、第13軍は6月24日までに麗水を攻略し、続けて7月1日には横峯を占領して第11軍との連絡に成功し浙贛線打通を完了、そのまま温州攻略に移ると12日には温州を占領した[20][21]。
5月より義勇飛行隊などが中心だった在中国アメリカ航空戦力が増強されアメリカ陸軍航空部隊となり桂林方面への進出が見られ始める[22]。これに対応するための作戦が第二次「せ」号航空作戦であり、8月7日まで続けられた[23]。
7月28日、大本営は浙贛作戦反転を下令。内容は金華を確保しつつ、第13軍は8月中旬ごろに反転せよというものだった。8月19日に撤収を開始し、撤収完了は9月末になった[24]。
結果
作戦は一応成功したが、これによって支那派遣軍による重慶侵攻作戦(四川作戦)は大幅に遅れた。9月に準備命令が出たころには南方戦線に航空兵力をまわさなければならなくなってしまい、結局12月には重慶侵攻作戦は中止されてしまった[25][26][27][28]。
日本軍は浙贛作戦においても三光作戦と同様の行為を行ったとされ[29]、キリスト教の布教活動をしていた宣教師による証言が複数ある[30]。
また、731部隊による細菌攻撃が行われた[31][32][33]。日本軍に1万人以上の戦病者が発生、そのうち1700人以上の死者が出たとされる。
クレア・リー・シェンノートは回顧録「Way of a Fighter」(1949年)で3ヶ月の作戦期間で中国兵と民間人が25万人が殺された[信頼性要検証]と記している[34]。この数字は戦後のアメリカおよび中国で特に喧伝された。[信頼性要検証]