江戸神田で幕臣高橋家に生まれる[1]。幼名金三郎、のち鏞之進さらに鋭一郎と改め、鋭翁は号[1]。1848年(嘉永元年)、浦野家に養子に入る[1]。昌平黌卒業後、甲府徽典館学頭、駿府明新館学頭、昌平黌教授を歴任[1]。明治維新で徳川家に従って静岡へ移住、静岡学問所教授となった[1]。1872年(明治5年)、学問所廃止後は、児童を対象として宝台院境内に私塾修来学舎、さらに別雷神社境内に小学校緝明舎、島田駅に小学校を設置するなど初等教育に貢献[1]。そののち静岡師範学校や静岡中学で漢文を教えた[1]。『静岡町名、近郷村名つくし』[2]は郷土教育教材の先駆[1]。墓所は静岡市宮ヶ崎町の報土寺[1]。